「楠木正成」の版間の差分

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南北朝の争いが北朝側の勝利に終わると、南朝側に尽くして死んだ正成は[[朝敵]]とされてしまった。だが、[[永禄]]2年([[1559年]])11月20日、正成の子孫と称した[[楠木正虎]]が朝敵の赦免を嘆願し、[[正親町天皇]]の勅免を受けて正成と楠木氏は朝敵でなくなった<ref group="原文" name="orig-masatora-chokumen"/>。ただし、この時点では「先祖である朝敵・正成の非を子孫が深く悔いたから」許されたという形式になっており、正成に非があるとする汚名の返上にまでは至らなかった<ref group="原文" name="orig-masatora-chokumen"/>。
 
楠木氏嫡流と言われた[[伊勢楠木氏]]は、[[伊勢国]]の金場([[亀山市]]関町金場)や[[楠町 (三重県)|楠城]]を根城とする[[北勢四十八家]]楠氏として土豪になり、
また第2代当主[[千子正重|正重]]が千子[[村正]]の門下に入って刀工になるなど細々と活動を行っていた{{sfn|藤田|1938b|pp=31–37}}。
しかし、第7代当主[[楠木正具]]が1576年[[天王寺の戦い (1576年)|天王寺の戦い]]で戦死、次いで第8代当主[[楠木正盛]](盛信とも)が1584年[[小牧・長久手の戦い]][[加賀野井城]]で戦死したことで絶えた{{sfn|藤田|1938b|pp=31–37}}。