「杉浦正健」の版間の差分

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|publisher = 岡崎市議会史編纂委員会
|page = 765-767
}}</ref>。}}。「市長選のしこりで杉浦から去って行った初当選時のベテラン選対連中が、もしそのまま残っていたら、こんな素人選挙はしなかったろうに」と当時の関係者は述べている<ref name="chunichi19900226" />。岡崎地区選対の実質的な責任者を務めたのは前市議会議長の河澄亨であった<ref>『朝日新聞』1990年2月26日付夕刊、9面、「逮捕の河澄市議は地区選対の実質的責任者 杉浦氏派選挙違反」。</ref>。河澄は前回杉浦の擁立に尽力した反河澄派の市議らを選対中枢部から除外するとともに陣頭指揮に立った{{Refnest|group="注"|河澄亨は市水道局職員を経て、1979年に[[岡崎市議会]]議員に初当選した。会派「自民クラブ」に所属し[[内田喜久]]市政を支えるも、1980年の[[第36回衆議院議員総選挙]]では解散直後、内田が擁立した長男[[内田康宏|康宏]]の陣営から[[浦野烋興]]に寝返った<ref>[[木村伊量]]「全容 無謀の構図 (39)」 『朝日新聞』1980年12月12日付朝刊、三河版西。</ref><ref>木村伊量「全容 無謀の構図 (101)」 『朝日新聞』1981年4月18日付朝刊、三河版西。</ref>。この時は警察の内通者となることで逮捕を免れるが<ref>木村伊量「全容 無謀の構図 (52)」 『朝日新聞』1981年1月24日付朝刊、三河版西。</ref><ref>『朝日新聞』1980年6月26日付朝刊、13版、23面。</ref>、1990年の総選挙では、事務局長の鈴木康夫から50万円を受け取った容疑で同年2月25日に他の市議とともに逮捕された<ref>『東海愛知新聞』1990年2月27日、1面、「さらに市議6人逮捕 岡崎 杉浦氏派の買収事件拡大」。</ref>。1992年5月18日、[[即位の礼]]伴う特赦を受け[[公民権]]停止が解ける<ref>『中日新聞』1992年5月19日付朝刊、26面、「有罪確定の元岡崎市議 新たに7人特赦 衆院杉浦氏派選挙違反事件」。</ref>。[[公民権]]停止が解けた河澄は同年10月の市議選に立候補し再び当選。市長選落選後の2001年9月26日、[[市街化調整区域]]における家電製品卸販売会社の施設建設をめぐって、あっせん収賄容疑で逮捕された<ref>『東海愛知新聞』2001年9月27日、1面、「河澄元岡崎市議長を逮捕 300万円あっせん収賄容疑 会社施設の建設に便宜」。</ref>。}}。そのため市議らの反発は強く、選対のぎくしゃくした関係を修復することを目的として現金がばらまかれたとも言われる<ref>『中日新聞』1990年2月26日付朝刊、31面、「杉浦氏派違反 買収工作の背景 市議への『借り』」。</ref>。
 
実の弟が逮捕されたにもかかわらず杉浦は[[連座制]]の適用を受けなかった。連座制を規定する[[公職選挙法]]251条の2は「公職の候補者又は公職の候補者となろうとする者」を対象としているが、改正前の事件当時は「公職の候補者」とのみ記されていた。また、この言葉を字義どおりに解釈する[[最高裁判所]]昭和35年2月23日判決があったことから、買収工作時点で杉浦は「公職の候補者」に当たらず、[[丹羽兵助]]と同様に起訴を免れた<ref>『朝日新聞』1990年3月16日付夕刊、12面、「空洞化の選挙違反連座制 公示前は不問」。</ref>。