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{{Quotation|戦記文学の今日の意義と使命は言ふまでもない。ただ文学者として思ふことは、多くの戦記が十分大切にされてゐぬ憾みはないか。民族の宝を散佚埋没に委ねてはゐないか。この賞によつて、今日のため、後世のためそれを尚大切にする発燭を得れば幸ひである。|川端康成「戰記分學賞制定發表」<ref>(文藝春秋 1944年6月號)p.45</ref>}}
[[ファイル:Yamaoka Sohachi.jpg|thumb|right|130px|従軍記者として鹿児島の鹿屋基地で一緒に取材活動をした山岡荘八]]
[[1945年]](昭和20年)4月に[[志賀直哉]]の推薦で海軍報道班員([[少佐]]待遇)となり<ref name="takado">{{Harvnb|高戸|1994|pp=219-220}}。{{Harvnb|森本・上|2014|pp=529-530}}</ref>、[[新田潤]]、[[山岡荘八]](新田と山岡は正式徴用の報道班員)と共に[[鹿児島県]][[鹿屋航空基地]]に赴き、1か月滞在して[[特別攻撃隊]][[神雷部隊]]を取材した<ref name="haisen"/><ref name="jitsuro314">「第三章 作家的声名の確立――特攻隊への鎮魂」({{Harvnb|実録|1992|pp=153-156}})。{{Harvnb|文学大系|1990}}に抜粋掲載</ref>。川端は呼び出しそのときの心境受けた[[海軍省沖縄戦]]で2人と合流したも見こみ、新田と山岡が大き陸軍靴を履いていく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つ。特攻隊対しつい、川端一行も報道痛々しく痩せ書かなかつ身体。」と戦後子供靴のような真振り返赤な靴を履るが<ref name="haisen"/>、秘密兵器として報道管制されていた。そ[[特攻兵器]][[桜花 (航空機)|桜花]]が報道解禁された直後靴は川端によれば称賛[[徳田秋声プロパガンダ]]記事『霹靂遺品如き一瞬、敵艦ただ死のみ・川端康成氏“神雷兵器”語る』ということであったが、戦時中記事に桜花や特攻へ物資不足称賛折に山岡には羨ましく感じたと談話を寄せてう<ref>[[山岡荘八]]「最後の従軍」([[朝日新聞]] 196219458661連載第1回目</ref>
 
3人が鹿屋に着いてまもなく飛行機墜落事故があった。昼夜問わず[[空襲]]もあり、そのたび山の中の[[防空壕]]に駆け込んだ。山岡は、「こんなとこでは死んでも死にきれないだろう」と驚き、川端はただじっと黙ってその方角を見つめ、その大きな目の中は真っ赤だった<ref name="yamaoka">[[山岡荘八]]「最後の従軍」([[朝日新聞]] 1962年8月6日-10号)。{{Harvnb|森本・上|2014|pp=530-534}}、{{Harvnb|小谷野|2013|p=344}}に抜粋掲載</ref><ref name="takado"/>。鹿屋で川端らは[[水交社]]に滞在し、特攻機が出撃するたびに見送りをしたが<ref name="haisen"/>、川端らと同じ時期に鹿屋にいた[[中央大学]][[法学部]]出身の[[谷田部海軍航空隊]]杉山幸照[[予備士官|予備少尉]]によれば、川端は[[沖縄戦]]で特攻作戦を指揮していた[[第五航空艦隊]]の上層部と話すときには特攻を礼賛するのに、川端ら予備士官らに対しては民間人と錯覚して「特攻の非人間性」を語るなど、相手に応じて態度を変えており、「小心者で卑屈」と特攻隊員らからは敬遠されていたという<ref>{{Harvnb|杉山|1979|pp=190-191}}</ref>。
 
一方、川端は当時の心境を「[[沖縄戦]]も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つた。特攻隊について一行も報道は書かなかつた。」と述懐しているが<ref name="haisen"/>、川端はこの取材により、[[朝日新聞]]の[[特攻兵器]][[桜花 (航空機)|桜花]]についての『霹靂の如き一瞬、敵艦ただ死のみ・川端康成氏“神雷兵器”語る』という記事に、「神雷(桜花のこと)こそは実に恐るべき武器だ(中略)これさへあれば沖縄周辺の敵艦船群はすべて海の藻屑としてくれるぞ」「親飛行機の胴体に抱かれて行く、いわば子飛行機のこの神雷兵器は小さな飛行機の形をしていて色彩も優美で全く可愛い(中略)神雷による勝機は今眼前にある、必勝を信じて神雷にまたがり、淡々と出撃する勇士等に恥づかしくない心をもって生産戦に戦い抜かう、爆撃に断じて屈するな」という談話を載せている([[朝日新聞]] 1945年6月1日)。
 
しかし、川端はこの記事が紙面に掲載される前の1945年5月には鹿屋を発って鎌倉に戻っていた。杉山予備少尉が、特攻出撃のために待機していた鹿屋から[[茨城県]][[筑波郡]][[つくば市|谷田部町]]の本隊への帰還を命じられた際に、食堂で食事中の川端を見かけ別れの挨拶をしたところ、川端はいつもの癖で杉山の顔を凝視しながら顔を真っ赤にして「自分も急用があり,身体の具合も悪いので、ちょっと帰りたいのだが飛行機の都合がつかないので困っている。」と鹿屋からの脱出の手助けをして欲しいと懇願した。杉山は川端を快くは思っていなかったが、一緒の飛行機で帰ることを提案し、川端はその提案に基づき自ら司令部と交渉して杉山が乗る[[零式輸送機]]に同乗することができた<ref>{{Harvnb|杉山|1972|p=194}}</ref>。杉山は給油のために立ち寄った[[鈴鹿市|鈴鹿]]で、飛行機酔いした川端に[[カレーライス|ライスカレー]]を御馳走するなど気を配ったが、その後、戦争が終わると、川端はすっかり手の届かない遠い人となってしまい、2人が再会することはなかった<ref>{{Harvnb|杉山|1972|p=197}}</ref>。
 
川端が早々に退散したあとも山岡は鹿屋に残り、6月13日には[[日本放送協会|NHK]]が全国放送した神雷部隊の隊員らの様子を伝えるラジオ放送の司会や解説もしている<ref>{{Harvnb|加藤浩|2009|p=398}}</ref>。結局、山岡は神雷部隊が[[松山海軍航空隊|松山基地]]や[[宮崎県]][[日向市]]にある富高基地に後退が決定するまで鹿屋に留まった<ref>{{Harvnb|加藤浩|2009|p=431}}</ref>。神雷部隊の後退が決まった日に山岡は司令の[[岡村基春]]大佐を訪ねたが、岡村は山岡に東京に早く帰りなさいと即して、第一回目の出撃で戦死した[[野中五郎]]大佐ら戦死した隊員の位牌に供えられていた、ウィスキーの角瓶や果物の缶詰といった当時では貴重だった大量のお供え物を「東京も焼け野原と聞いている。家族は困っているでしょう。せめて、これをリュックに入れていってあげなさい」と渡している<ref>{{Harvnb|山岡荘八⑤|1987|p=548}}</ref>。山岡は川端と異なり自らの手配で陸路で東京に帰ったが、途中で空襲や機銃掃射にもあいながら5日もかけてどうにか帰り着いてる<ref>{{Harvnb|山岡荘八⑤|1987|p=550}}</ref>。
 
山岡はこの取材の体験で作家観が変わるほどの衝撃を受け<ref name="yamaoka"/>、死に赴く若い特攻隊員たちの姿を見た川端は、その感慨をのちに『生命の樹』に取り入れている<ref>「生命の樹」([[鎌倉文庫#婦人文庫|婦人文庫]] 1946年7月号)。{{Harvnb|小説7|1981|pp=333-364}}、{{Harvnb|反橋|1992|pp=105-142}}に所収</ref>。
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{{Quotation|青野季吉が長逝された。(中略)その病室には、大ぜいの見舞客や見舞品が殺到したらしいが、その中で、特に川端さんが、懇ろに、[[花]]を持っていったり、[[掛け軸]]をはこんだりしている様子に、私は思わず、目がしらを熱くした。昭和年代の作家として、やはり川端さんは、ずば抜けて偉いものだと思う……。そう云えば、[[北條民雄]]氏のときも、川端さんの行動に、私などは唯、あれよあれよと、敬服するだけだった。臆病な私は北條民雄と聞くだけでも、近寄れないのに、川端さんはまるで何ンでもないように、往ったり来たりしていた。|[[舟橋聖一]]「川端さんの寛容」<ref name="funahashi"/>}}
 
=== その他従軍記者体験について ===
川端は[[1945年]](昭和20年)4月に[[志賀直哉]]の推薦で海軍報道班員として、[[大日本帝国海軍]]の特攻基地であった鹿屋基地の取材を行っている<ref name="takado">{{Harvnb|高戸|1994|pp=219-220}}</ref>。川端は呼び出しを受けた[[海軍省]]で同じく海軍報道班員として鹿屋を取材することとなっていた新田潤、山岡荘八と合流したが、新田と山岡が大きな陸軍靴を履いていたのに対して、川端は痛々しく痩せた身体に子供靴のような真っ赤な靴を履いていた。その靴は川端によれば[[徳田秋声]]の遺品ということであったが、戦時中の物資不足の折に山岡には羨ましく感じたという<ref>[[山岡荘八]]「最後の従軍」([[朝日新聞]] 1962年8月6日連載第1回目)</ref>。川端は鹿屋に出発前に[[大本営]]報道部の高戸大尉から、「特攻をよく見ておくように。ただし、書きたくなければ書かないでよい。いつの日かこの戦争の実体を書いて欲しい」と通告されていた<ref name="takado"/>。
川端が大戦中、鹿屋基地で報道班員として沖縄戦を取材していた際に、特攻隊員として川端との交流があった杉山幸照予備少尉によれば、川端と杉山が海軍の輸送機で鹿屋から去ったとき、途中、燃料補給で降りた[[鈴鹿市|鈴鹿]]で飛行機酔いして顔面蒼白になっていた川端に士官食堂でカレーライスを奢ったところ、しょぼしょぼとしながらも綺麗にたいらげ、「[[特別攻撃隊|特攻]]の非人間性」について語ったという<ref name="sugiyama">{{Harvnb|杉山|1972}}。{{Harvnb|森本・上|2014|pp=534-538}}</ref>。杉山は、川端が軍の上層部に対しては特攻を礼賛するような発言をしていたことを知っており、その二面性に辟易している<ref>{{Harvnb|杉山|1979|pp=190-191}}</ref>。また、杉山は戦後に出版した著作内の川端に関する回想で、一緒に取材していた「2,3の報道班員の人たち」(新田と山岡)は戦後に特攻隊員を紹介し、隊員の霊を慰めほめたたえてくれたのに<ref>{{Harvnb|杉山|1972|p=197}}</ref>、最後まで川端が特攻について語ることがなかったのが残念であったと記している<ref name="sugiyama"/>。ただし、川端は鹿屋での体験を基にした『生命の樹』を書いており、杉山がこの作品を知らなかったのか、「川端さんの文章をもってすれば,どんなに人に感動をあたえることだろう」と多大な期待をしていた杉山にとって『生命の樹』では期待外れであったのかは不明である<ref>{{Harvnb|李聖傑|2010|p=107}}</ref>。
 
鹿屋で川端らは[[水交社]]に滞在し、特攻機が出撃するたびに見送りをしたが<ref name="haisen"/>、3人が鹿屋に着いてまもなく飛行機墜落事故があった。昼夜問わず[[空襲]]もあり、そのたび山の中の[[防空壕]]に駆け込んだ。山岡は、「こんなとこでは死んでも死にきれないだろう」と驚き、川端はただじっと黙ってその方角を見つめ、その大きな目の中は真っ赤だった<ref name="yamaoka">[[山岡荘八]]「最後の従軍」([[朝日新聞]] 1962年8月6日-10号)。{{Harvnb|森本・上|2014|pp=530-534}}、{{Harvnb|小谷野|2013|p=344}}に抜粋掲載</ref><ref name="takado"/>。鹿屋で川端らは[[水交社]]に滞在し、特攻機が出撃するたびに見送りをしたが<ref name="haisen"/>、川端らと同じ時期に鹿屋にいた[[中央大学]][[法学部]]出身の[[谷田部海軍航空隊]]杉山幸照[[予備士官|予備少尉]]によれば、川端は[[沖縄戦]]で特攻作戦を指揮していた[[第五航空艦隊]]の上層部と話すときには特攻を礼賛するのに、川端ら予備士官らに対しては民間人と錯覚して「特攻の非人間性」を語るなど、相手に応じて態度を変えており、「小心者で卑屈」と特攻隊員らからは敬遠されていたという<ref>{{Harvnb|杉山|1979|pp=190-191}}</ref>。
川端は赴任前に[[大本営]]報道部の高戸大尉から、「特攻をよく見ておくように。ただし、書きたくなければ書かないでよい。いつの日かこの戦争の実体を書いて欲しい」と通告されており、のちに高戸は、「繊細な神経ゆえに(特攻に関して)筆をとれなかったのではないか」と推測している<ref name="takado"/>。しかし、川端は秘密兵器として報道管制されていた特攻兵器桜花が報道解禁された直後の称賛[[プロパガンダ]]記事『霹靂の如き一瞬、敵艦ただ死のみ・川端康成氏“神雷兵器”語る』という記事に、「これさへあれば沖縄周辺の敵艦船群はすべて海の藻屑としてくれるぞ」や「この神雷兵器(桜花のこと)は小さな飛行機の形をしていて色彩も優美で全く可愛い」などという称賛の談話を寄せている([[朝日新聞]] 1945年6月1日)。
 
川端らと同じ時期に鹿屋にいた[[中央大学]][[法学部]]出身の[[谷田部海軍航空隊]]杉山幸照[[予備士官|予備少尉]]によれば、川端は杉山ら[[学徒出陣]]で予備士官となった大学出身の特攻隊員と食堂などでよく文学談義に花を咲かせており、このときの川端は予備士官には特攻の非人道的暴挙を非難し同情を寄せていたが、[[沖縄戦]]で特攻作戦を指揮していた[[第五航空艦隊]]の上層部と話すときには、笑いながら特攻を賛美するような話をしていたので、杉山はその上下で態度を変える川端に対して「彼(川端)ほど小心で卑屈な人間を見たことがない」「偉大な作家であっただけに、その狡猾な言動を快くは感じていなかった」と痛烈に批判し、他の特攻隊員も不信を抱いていたという。その一方で川端は神国日本を信じて、やがて[[神風]]が連合軍艦隊を全滅させたという過去の歴史の繰り返しを期待する、“幼稚”な思想を特攻隊員らと共有していたと杉山は回想している<ref>{{Harvnb|杉山|1979|pp=190-191}}</ref>。
敗戦後、川端は、「生と死の狭間でゆれた特攻隊員の心のきらめきを、いつか必ず書きます」と島居達也候補生に約束したとされる<ref>海軍神雷舞台戦友会編集委員会編・著『海軍神雷部隊 最初の航空特別攻撃隊』(海軍神雷舞台戦友会、1996年3月)</ref>。なお、川端が特攻隊の青年たちに触れた作品には『生命の樹』があるが、一部分が[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により削除されたという<ref name="hideko5"/>。
 
川端は当時の心境を「[[沖縄戦]]も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つた。特攻隊について一行も報道は書かなかつた。」と回想し<ref name="haisen"/>、川端に特攻の記事は書かなくてもいいと伝えた大本営参謀の高戸は戦後に「繊細な神経ゆえに(特攻に関して)筆をとれなかったのではないか」と考えていたが<ref name="takado"/>、川端はこの取材により、[[朝日新聞]]の[[特攻兵器]][[桜花 (航空機)|桜花]]についての『霹靂の如き一瞬、敵艦ただ死のみ・川端康成氏“神雷兵器”語る』という記事に、下記のような称賛の談話を寄せている。
{{Quotation|神雷(桜花)こそは実に恐るべき兵器だ、この新鋭武器が前線に来た時、わが精鋭は勇気百倍した、これさへあれば沖縄周辺の敵艦戦群はすべて海の藻屑としてくれるぞ!神雷特別攻撃隊の意気は今天を衝いておる。<br />親飛行機の胴体に抱かれて行く、いはば子飛行機のこの神雷兵器は小さな飛行機の型をしてゐて色彩も優雅で全く可愛い、ところが敵艦発見と同時に猛然と親の懐を離れて神雷兵器は一瞬にして凄まじい威力を持つ特攻兵器となる、<br />したがって敵がこの神雷を恐れることは非常なものだ、身の毛もよだつといつてゐるといふが、その通りだらう、神雷さへ十分に威力を発揮できたらすべての敵艦はことごとく葬り去られ神風の再現ができる、<br />親飛行機と戦闘機の増産、これが今神雷に一番大切なことだ、これさへできれば神雷は数百数千の稲妻のごとく敵艦に殺到してすべてを沈めさるであらう、飛行機を作れ、飛行機を作れ、神雷による勝機は今目前にある、必勝を信じて神雷にまたがり、淡々と出撃する勇士等に恥づかしくない心をもつて生産戦に戦ひ抜かう、爆撃に決して屈するな、私は心からお傳したい。|川端康成「霹靂の如き一瞬、敵艦ただ死のみ・川端康成氏“神雷兵器”語る」([[朝日新聞]] 1945年6月1日)}}
 
しかし、川端はこの記事が紙面に掲載される前の1945年5月には鹿屋を発って鎌倉に戻っていた。杉山予備少尉が、特攻出撃のために待機していた鹿屋から[[茨城県]][[筑波郡]][[つくば市|谷田部町]]の本隊への帰還を命じられた際に、食堂で食事中の川端を見かけ別れの挨拶をしたところ、川端はいつもの癖で杉山の顔を凝視しながら顔を真っ赤にして「自分も急用があり,身体の具合も悪いので、ちょっと帰りたいのだが飛行機の都合がつかないので困っている。」と鹿屋からの脱出の手助けをして欲しいと懇願した。杉山は川端を快くは思っていなかったが、一緒の飛行機で帰ることを提案し、川端はその提案に基づき自ら司令部と交渉して杉山が乗る[[零式輸送機]]に同乗することができた<ref>{{Harvnb|杉山|1972|p=194}}</ref>。杉山は途中、燃料補油のために立ち寄っで降りた[[鈴鹿市|鈴鹿]]で飛行機酔いして顔面蒼白になっていた川端に士官食堂で[[カレーライス|ライスカレー]]を御馳走するなど気を配ったところ、しょぼしょぼとしならも綺麗にたいらげ「[[特別攻撃隊|特攻]]後、戦争が終わる非人間性」について語ったいう<ref name="sugiyama">{{Harvnb|杉山|1972}}。{{Harvnb|森本・上|2014|pp=534-538}}</ref>。杉山は、川端が軍の上層部に対して特攻を礼賛っかり手の届かるよう発言をして遠い人たこを知っており、その二面性に辟易、2人が再会すことはなかった<ref>{{Harvnb|杉山|19721979|ppp=197190-191}}</ref>。
 
川端が大戦中、鹿屋基地で報道班員として沖縄戦を取材していた際に、特攻隊員として川端との交流があった杉山幸照予備少尉によれば、川端と杉山が海軍の輸送機で鹿屋から去ったとき、途中、燃料補給で降りた[[鈴鹿市|鈴鹿]]で飛行機酔いして顔面蒼白になっていた川端に士官食堂でカレーライスを奢ったところ、しょぼしょぼとしながらも綺麗にたいらげ、「[[特別攻撃隊|特攻]]の非人間性」について語ったという<ref name="sugiyama">{{Harvnb|杉山|1972}}。{{Harvnb|森本・上|2014|pp=534-538}}</ref>。杉山は、川端が軍の上層部に対しては特攻を礼賛するような発言をしていたことを知っており、その二面性に辟易している<ref>{{Harvnb|杉山|1979|pp=190-191}}</ref>。また、杉山は戦後に出版した著作内の川端に関する回想で、一緒に取材していた「2,3の報道班員の人たち」(新田と山岡)は戦後に特攻隊員を紹介し、隊員の霊を慰めほめたたえてくれたのに<ref>{{Harvnb|杉山|1972|p=197}}</ref>、最後まで川端が特攻について語ることがなかったのが残念であったと記している<ref name="sugiyama"/>。ただし、川端は鹿屋での体験を基にした作品『生命の樹』を書いており、杉山がこの作品を知らなかったのか、「川端さんの文章をもってすれば,どんなに人に感動をあたえることだろう」と多大な期待をしていた杉山にとって『生命の樹』では期待外れであったのかは不明である<ref>{{Harvnb|李聖傑|2010|p=107}}</ref>。
 
川端が早々に退散したあとも山岡は鹿屋に残り、6月13日には[[日本放送協会|NHK]]が全国放送した神雷部隊の隊員らの様子を伝えるラジオ放送の司会や解説もしている<ref>{{Harvnb|加藤浩|2009|p=398}}</ref>。結局、山岡は神雷部隊が[[松山海軍航空隊|松山基地]]や[[宮崎県]][[日向市]]にある富高基地に後退が決定するまで鹿屋に留まった<ref>{{Harvnb|加藤浩|2009|p=431}}</ref>。神雷部隊の後退が決まった日に山岡は司令の[[岡村基春]]大佐を訪ねたが、岡村は山岡に東京に早く帰りなさいと即して、第一回目の出撃で戦死した[[野中五郎]]大佐ら戦死した隊員の位牌に供えられていた、ウィスキーの角瓶や果物の缶詰といった当時では貴重だった大量のお供え物を「東京も焼け野原と聞いている。家族は困っているでしょう。せめて、これをリュックに入れていってあげなさい」と渡している<ref>{{Harvnb|山岡荘八⑤|1987|p=548}}</ref>。山岡は川端と異なり自らの手配で陸路で東京に帰ったが、途中で空襲や機銃掃射にもあいながら5日もかけてどうにか帰り着いてる<ref>{{Harvnb|山岡荘八⑤|1987|p=550}}</ref>。
 
敗戦後、川端は、「生と死の狭間でゆれた特攻隊員の心のきらめきを、いつか必ず書きます」と島居達也候補生に約束したとされる<ref>海軍神雷舞台戦友会編集委員会編・著『海軍神雷部隊 最初の航空特別攻撃隊』(海軍神雷舞台戦友会、1996年3月)</ref>。なお、川端が特攻隊そして鹿屋で青年たち体験を基触れたして作品には『生命の樹』があるを書き上げたが、一部分が[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により削除されたという<ref name="hideko5"/>。
=== その他 ===
[[洛中]]に現存する唯一の蔵元[[佐々木酒造]]の日本酒に、「この酒の風味こそ[[京都]]の味」と、作品名『[[古都 (小説)|古都]]』を揮毫した。晩年川端は、宿泊先で[[桑原武夫]]([[京都大学|京大]][[名誉教授]])と面会した際に「古都という酒を知っているか」と尋ね、知らないと答えた相手に飲ませようと、寒い夜にもかかわらず自身徒歩で30分かけて買いに行ったと、桑原は回想している<ref>[[桑原武夫]]「川端康成氏との一夕」(文藝春秋、1972年6月号掲載)、『人間素描』(筑摩書房、1976年6月)に所収</ref>。