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'''国民革命軍'''(こくみんかくめいぐん、{{ピン音|Guómín Gémìng Jūn}})は、1925年から1947年にかけて存在した[[中国国民党]]の党軍隊である。1925年に[[国民党政府]]が置かれた[[広東省|広東]]にて建軍され、それには[[コミンテルン]]からの援助と指導が大きく関わっていた。翌1926年から開始された[[北伐 (中国国民党)|北伐]]の中で各地の[[軍閥]]を服従させつつ[[北京政府]]を倒し、1928年に[[南京市|南京]]を首都とする[[中華民国]]を成立させた後は[[国軍]]となった。
 
1937年からの[[抗日戦争]](日中戦争)では侵攻する[[日本軍]]を相手にして頑強に抵抗を続けた。この抗日期間中は[[国共合作]]に基づき[[八路軍|中国共産党軍]]も指揮下に組み込んでいた。日本側はもっぱら'''国民党軍'''と呼び、1938年に[[国民党政府]]が[[南京市|南京]]から遷都した後は'''重慶軍'''と呼んでいた。終戦後の1945年から始まった[[国共内戦]]では[[中国人民解放軍|中国共産党軍]]の前に敗れて台湾へと逃れた。[[中国国民党]]が1947年に[[台湾政府]]を樹立した後は[[中華民国国軍]]と名称を変えた。
 
== 歴史 ==
1925年、[[中国国民党]]は[[広東省|広東]]を本拠地とする[[国民政府|広東国民政府]]を開いた。同時に[[北京政府]]を倒して中国全土の統一を目指す「[[北伐 (中国国民党)|北伐]]」を遂行するための軍隊設立に着手し、[[コミンテルン|国際共産主義組織(コミンテルン)]]の支援を受けて建軍されたのが「国民革命軍」であった。この命名はコミンテルンの深い影響があった事を示している。
国民革命軍は、北伐により[[中国]]を統一することを使命とする軍隊として1925年に[[中国国民党]]によって建軍された。[[コミンテルン]]の支援を得て組織され、[[三民主義]]のイデオロギーに基づき指導が行われ、党、政府、軍の区別がはっきりしないことが度々あった。軍の[[将校]]の多くは[[黄埔軍官学校]]を卒業し、この学校の最初の校長であった[[蒋介石]]は1925年、後に成功する北伐が開始される前に国民革命軍の[[最高指揮官]]に就任した。国民革命軍の有名な[[司令官]]には蒋介石以外にも[[杜聿明]]と[[陳誠]]がいた。
 
国民革命軍内では[[三民主義]]のイデオロギーに基づいた指導が行われていたので、国家(民族)と党(民権)と軍(民生)の区別がたびたび不明瞭化し、後年に相次いだ各部隊の脱走ないし離反の原因にもなった。士官の多くは[[黄埔軍官学校]]の卒業生で占められており、その初代校長であった[[蒋介石]]は、北伐開始前の1925年に国民革命軍の最高指揮官に就任した。著名な司令官には[[杜聿明]]や[[陳誠]]などがいた。1928年に[[北京政府]]の攻略に成功して北伐を終え、[[南京市|南京]]を首都とする[[中華民国]]が開かれた後はその国軍となった。
 
[[日中戦争]]の時期には[[中国共産党]]の軍隊は名目上は国民革命軍の一部として[[八路軍]]と[[新四軍]]を組織して戦ったが、この協力体制は後に崩壊した。中国の国共内戦において国民革命軍には、[[脱走兵]]の発生や、多数の[[部隊]]が部隊ごと中国共産党側に寝返るという問題を抱えていた。[[1949年]]に人民解放軍に敗北した後は台湾に逃れ、後に[[中華民国国軍]]と名称を変え、今日に至っている。
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[[ファイル:NRA cavalry.jpg|thumb|国民革命軍の騎兵隊]]
[[ファイル:Countermand concession.jpg|thumb|行進する国民革命軍兵士|代替文=]]
国民革命軍は、370個の[[師団]]('''整編師''')、46個の新編師団('''新編師)'''、12個の騎兵師団('''騎兵師''')、8個の新編騎兵師団('''新編騎兵師''')、66個の臨時師団('''暫編師''')、13個の予備師団('''預備師''')の以上が内訳となる総計515個の師団('''師''')を1925年から1947年の間にかけて編制していた。その総兵員数は430万人であった。多く建軍前期師団の定員数は5千から6千人であり、日本など他の近代軍隊の師団が1万から1万5千人だったのに比べてはるかに少なかったしかし、[[中独合作]]の下でドイツ式の編制と訓練を施された[[国民革命軍ドイツ訓練師団|ドイツ式師団]]('''徳械師''')の定員は1万4千人となっていたおり<ref>[[:en:German-trained_divisions]]</ref>、他の師団も徐々に定員の増強が図られた。新編師団は抗日戦争前に再編ないし編制されたものであり、装備と部隊構成がやや改新されていた。師団の大半はその充足率が低く、前線に投入されて稼働状態になる際は他の師団が複数個編入されて数合わせされる事が多かった。ゆえにので、同時に活動している実際の師団数はずっと少なかった。師団に組み込まれた師団は大抵は支隊称された言う。国民革命軍の全師団は、国民党直属の師団と新編師団、各軍閥の私設師団、共産党師団の寄せ集めであったので装備と練度と規律に大きなばらつきがあった。1941年当時は述べ380万人の兵士が動員されており、246個の師団が前線で活動し、70個の師団が後方に置かれていた。
 
師団は軍政上の基本単位でもあり、各師団は'''教導團'''と称される新兵教育部署を備えていたので、それぞれが独自に兵士の募集または強制徴募を行なって人数を揃えていた。前線へ向かう際はほとんどの場合、作戦上の基本単位である'''軍'''の下に編入されて行動した。軍は2個師団を動かし、それを支援する砲兵連隊('''砲兵團''')と工兵連隊('''特務團''')を追加されて実戦部隊としての戦力を完成させた。
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#'''国民政府軍事委員会'''
#'''戦區'''([[戦区]])-- 単数ないし複数の省を範囲にする[[軍管区]]である。複数の集團軍を統括した。
#'''兵團'''(兵団) -- 戦區を更に分割したもの。1個以上の集團軍とその他を持った。大抵は地名が冠せられた。
#'''集團軍'''(集団軍) -- 2個以上の方面軍を持つか、2個以上の軍とその他を持った。
#*'''路軍''' -- 2個の軍を持った。または2個以上の歩兵師とその他を持った。集團軍の小型版。