「岩野泡鳴」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
43行目:
=== 家系 ===
本名・岩野美衛。岩野家は阿波[[徳島藩]][[蜂須賀家]]の[[江戸]]詰[[直参]]であったが、泡鳴の祖父の代で[[洲本市|洲本]]に転住した。父・直夫は岩野家の婿養子で元徳島藩士。[[1873年]]([[明治]]6年)、洲本署巡査の父と、母・さとの長男として出生<ref name="yano">[https://www.jstage.jst.go.jp/article/geneiken/9/0/9_KJ00001916926/_pdf 岩野泡鳴と彼の恩人エマソン] 矢島幸運、 現代英米研究 9(0), 47-58, 英米文化学会, 1974</ref>。
 
明治3年に起きた[[稲田騒動]]の余波もあり日進小学校(現・[[洲本第二小学校]])時代の泡鳴は、土地の者から迫害され、独存自我が生成されていった。これは泡鳴文学の発祥基盤でもあった。
 
59 ⟶ 60行目:
 
[[1912年]](明治45・[[大正]]元年)、幸子と正式に離婚。刊行した『発展』が発売禁止となり、「朝日新聞」紙上に抗議文を掲げる。大阪新報を退社して帰京。養蜂に熱中する。翌年、清子と正式に結婚。
 
[[1915年]](大正4年)、[[プルターク]]『英雄伝』翻訳のため雇った筆記者[[蒲原英枝]](房枝)と関係ができる。清子と別居し、世間から轟々たる非難を浴び、反論する。清子に訴えられ反訴するが敗訴。[[1917年]](大正6年)、友人たちの斡旋で清子と協議離婚。