「インノケンティウス3世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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[[イタリア]]中部、[[アナーニ]]近郊の[[ガヴィニャーノ]]で生まれた<ref name="newadvent1">{{cite web|url=http://www.newadvent.org/cathen/08013a.htm |title=Catholic Encyclopedia: Pope Innocent III |publisher=Newadvent.org |date=1910-10-01 |accessdate=2010-02-17}}</ref>。{{仮リンク|コンティ家|it|Conti di Segni}}は、裕福な伯爵家で、彼を含め9人の教皇を輩出したことで有名である。彼も、[[パリ大学]]で[[神学]]を、[[ボローニャ大学]]で[[法学]]を学び、1190年に若くして[[枢機卿]]になり、[[1198年]][[1月8日]]に37歳で教皇に選出された。同年のうちに、インノケンティウスは[[神聖ローマ帝国|ローマ帝国]]領であった[[スポレート公国]]、[[アンコーナ]]、[[トスカーナ]]辺境伯への占有回復権を行使し、11月に死去した王母[[コスタンツァ (シチリア女王)|コスタンツァ]]のあとを受け、シチリア王フリードリヒ(後の皇帝[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]])の後見となった<ref name="Hei" />。1201年にこれらの帝国領はローマ王[[オットー4世 (神聖ローマ皇帝)|オットー4世]]により正式に教皇領とされた(ノイス条約)<ref name="Hei">『カラー世界史百科 増補版』、p.175</ref>。
 
[[1202年]]にはイスラム勢力の中心だった[[アイユーブ朝]]で[[アル=アーディル]]が即位して反撃の兆しが見えたため、[[第4回十字軍]]を提唱する。しかし海路の輸送を[[ヴェネツィア]]に頼ったこの十字軍は、支払う輸送料を賄えなかったためにヴェネツィアの利益を重んずるかたちで進行し、キリスト教徒の町である[[ツァラ]]を襲い占領して略奪を行なった。これに激怒した教皇は十字軍を全て破門したが、この十字軍はさらに[[東ローマ帝国|ギリシャ]]の帝位争いに介入し、[[1204年]]に[[コンスタンティノープル]]を征服して、[[ラテン帝国]]が建国されてしまう事になった(半世紀後にギリシャの東ローマ帝国は復興した)。ギリシャ東ローマ帝国もキリスト教国家であるが、11世紀なかばに袂を分かった東西教会の合同を実現させるため、インノケンティウスはラテン帝国を承認している。
また[[少年十字軍]]の悲劇が起こったのも、この教皇の時代である。