「全日空羽田沖墜落事故」の版間の差分

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事故機の[[全日本空輸]]60便ボーイング727-100型機(JA8302、1965年製造)は、[[1966年]][[2月4日]]の午後5時55分に[[千歳飛行場]]を出発し、目的地である羽田空港へ向かった<ref name=":0">{{Cite web|title=衆議院会議録情報 第051回国会 予算委員会 第6号|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/051/0514/05102050514006a.html|website=国会会議録検索システム|accessdate=2019-02-01|publisher=国立国会図書館}}</ref>。
 
60便は[[東京湾]]上空まで問題なく飛行を続けたが、東京湾に差し掛かる際、急に計器飛行 (IFR) (IFR)による通常の着陸ルートをキャンセルし、有視界飛行 (VFR) (VFR)により東京湾上空でショートカットする形での着陸ルートを選択した。
 
このルート変更の理由は不明であるが、当時は現在のように計器飛行方式 (IFR) (IFR)が義務付けられておらず、飛行中に機長の判断でIFRで提出した[[飛行計画|フライトプラン]]をキャンセルし、目視による有視界飛行方式 (VFR) (VFR)に切り替える判断が容認されていた<ref>神田好武「神田機長の飛行日誌」イカロス出版、2010年、187頁</ref>。そのため、航空路を無視したり、最大巡航速度(マッハ0.88)で巡航するなどして、東京 - 大阪27分、東京 - 札幌46分といった"スピード記録"を競う全日空のパイロットもいたという<ref>神田、前掲書、188頁</ref>。
 
なお、60便の近くには[[日本航空]]の[[沖縄県|沖縄]]・[[那覇空港]]からの国際線<ref>当時の沖縄は[[アメリカ合衆国]]の[[占領統治]]下であったため、出入国管理の必要な国外扱いだった</ref>として運行中の[[コンベア880]]機が飛行しており、60便を目撃していた。
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午後11時55分に捜索機が[[木更津市|木更津]]北方7[[海里]]付近において全日空の標示のある翼の一部を発見し、機体の内張りの一部及び乗客の衣類を収容し、午前0時5分に捜索船が羽田灯標東南東6.4海里で最初の遺体2体を収容した<ref name=":0" />。具体的な墜落時刻は不明なものの、午後7時00分20秒に最後の交信があってから応答がなくなるまでの数十秒の間と思われるが、写真では航空機関士席の計器板の時計が19時05分12秒を指して止まっているのが確認される<ref name=":0" /><ref>毎日フォトバンク - タイトル 「全日空機東京湾墜落事故。7時5分12秒を指す計器盤の時計」 ID:P19990610dd1dd1phj078000</ref>。
 
寒風吹きすさぶ荒れ模様の海上から懸命の[[海洋サルベージ]]が行われ、[[潜水士]]らによって遺体や機体の残骸が回収された<ref>{{Cite news|title=海よ ないでくれ|newspaper=朝日新聞|date=1966-02-08|page=15}}</ref>。乗客1名を除く乗客乗員132名の遺体は4月14日までに発見された。5月10日に遺体の捜索は打ち切られたが、最後の乗客1名の遺体は8月9日に[[横須賀市|横須賀]]の[[夏島町|夏島]]の岸壁漂着していところを発見された<ref>朝日新聞東京本社1966年8月10日朝刊、社会面。記事によれば遺体の頭部は失われていたが、着衣から本人と確認されたという。</ref>。
 
===単独機として最悪の事故===
導入されてまだ間もない最新鋭機であったことや、[[日本]]における初の大型[[ジェット機|ジェット]][[旅客機]]の事故で、ほぼ満席の乗客(多くは[[さっぽろ雪まつり]]観光客)と乗員の合計133人全員が死亡し、単独機として当時[[世界]]最悪の事故(この事故が発生するまでは[[1962年]][[6月3日]]に[[パリ]]・[[パリ=オルリー空港|オルリー空港]]で発生し、130人が死亡した{{仮リンク|エールフランス007便離陸失敗事故|en|Air France Flight 007}}が単独機として世界最悪の航空事故であった)となったこともあり、世界中から注目を集めた。
 
乗客には[[スタンダード靴]]の懸賞当選者(約50005,000人の応募者の中24人が当選)や関連会社の社員が含まれており、また団体客や接待旅行に参加していた出版業界の関係者([[旭屋書店]]創業者の[[早嶋喜一]]、[[柴田書店]]創業者の[[柴田良太]]、[[月刊自家用車]]初代編集長の[[清田幸雄]]、[[美術出版社]]社長の大下正男らを含む)など多数が巻き込まれたため、大きく報道された。また、被害が甚大であったことから2月4日から同年5月10日にかけて、[[海上自衛隊]]の[[自衛艦隊]]や[[横須賀地方隊]]も[[災害派遣]]された。
 
== 原因 ==
=== 調査 ===
政府は2月5日、政府は、事故原因究明のため、ボーイング727型機の国内線への導入にあたり、って積極的な推薦役を果たしてきた[[木村秀政]][[日本大学]]教授を団長とする、民間専門家と航空局幹部による「全日空機羽田沖事故技術調査団」<ref>『マッハの恐怖』p55</ref>([[連邦航空局|FAA]]ボーイングなどの技術者を主体とした製造国である[[アメリカ合衆国|アメリカ]]側の事故技術調査団との協力体制を取った)を設置することを決定した。事故後多くの機体の残骸(機体の90%近く)が引き上げられ、事故原因についての綿密な調査が行われたものの、コックピット[[ボイスレコーダー]]、[[フライトデータレコーダー]]ともに搭載していなかったこともあり、委員会は高度計の確認ミスや急激な高度低下などの操縦ミスを強く示唆しつつも(後の調査で東京湾上の時点では、水平もしくは緩やかな降下での飛行が判明したが、東京湾上に差しかかる時点で既に通常より低い高度で飛行していたとの目撃報告もあった)しつつも、最終的には原因不明とされた。収容された乗客の遺体の検視結果は衝撃による強打での[[頸骨]]骨折、脳・臓器損傷によるものと[[溺死]]によるものが多数を占めた。
 
=== 各説 ===
その中で「目的地への到着を急ぐあまり急激に高度を下げたものの、導入間もない機種の操縦で、予想しなかったほど高度が下がったことにより水面に激突した」、もしくは「高度計を見間違えた」という操縦ミス説や、残骸や遺体の髪の毛に火が走った跡があったため、第3エンジンの不調説<ref>山名正夫「最後の30秒―羽田沖全日空機墜落事故の調査と研究」</ref>(この第3エンジンはもともと第1エンジンとして取り付けられていたもので、事故以前からたびたび異常振動などのトラブルを起こしたため、前年に購入したばかりの機体であるにも関わらずオーバーホールを行った後に第3エンジンとして取り付けられ、オーバーホール後もトラブルを起こしていた)や、「誤ってグランド・[[スポイラー (航空機)|スポイラー]]を立てた」、または「機体の不具合、もしくは設計ミスのためにグランド・[[スポイラー]]が立ったため、機首を引き起こし、主翼から剥離した乱流でエンジンの異常燃焼が起き高度を失い墜落したのではないか」<ref>[[柳田邦男]]著『マッハの恐怖』p313,314 </ref>という説などがあげられた。
 
また、アメリカ側調査団の協力により、この事故に先立ってアメリカで前年[[1965年]]に起きていた同型機による3件の着陸時の事故調査結果も参考にされたものの、製造元のボーイング社の技術員を中心としたアメリカ側調査団は「機体の不具合や設計ミスがあったとは確認されず、いずれも操縦ミスが事故原因と推測される」とされた。
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木村団長ら調査団の多数は、「夜間の目視飛行の中で予想以上に高度を下げすぎた」という操縦ミスを事故原因とした方向での草案を作成した。この根拠として、60便は計器飛行による通常の着陸ルートをキャンセルし、目視飛行を行い通常の着陸ルートを東京湾上空でショートカットすることや、この事故に先立ってアメリカで起きていた同型機による着陸時の事故調査結果においても、ボーイング727型機の降下角度がプロペラ機のみならず、他のジェット機に比べても急であることに対する操縦員の不慣れによる操縦ミスが墜落原因とされたこと、さらに同型機は全日空が導入してまだ1年程度しかたっていない新鋭機であるだけでなく、同型機は全日空にとって初のジェット機であったため慣熟が行き届いていなかったことも指摘された。
 
しかし、航空局航務課は、木村団長の指示に反しパイロットミスの可能性を否定し、残骸にさまざまな不審な点があり機体に原因があるという方向で『第一次草案』をまとめ、1968年4月26日の会議に提出した<ref>『マッハの恐怖』p.243-248</ref>航務課調査官・楢林一夫が第3エンジンの機体側取り付け部に切れたボルトによる打痕が残っていたこと、第3エンジンが機体から離脱していたことから、取りつけボルトの疲労破壊説を報告していた。楢林一夫は調査団、航空局上層部と対立したため2年後に退官する<ref>[[藤田日出男]]『あの航空機事故はこうして起きたか』(新潮社)</ref>『第一次草案』で指摘された、第3エンジンの計器だけが他のエンジンと違う値を示していること、第3エンジンの消火レバーを引いた痕跡があること、操縦室のスライド窓操作レバーが開になっており窓が離脱していること<ref>[[藤田日出男]]『あの航空機事故はこうして起きた』(新潮社)</ref>、後部のドアの1つのレバーが開になっていること、着陸前であるにもかかわらず[[シートベルト]]を外している乗客が多数おり、乗客によって姿勢が異なることや(当時はシートベルトの安全性が認識されておらず、締めないままの乗客が多かった)、後続の日航機と丸善石油従業員が一瞬の火炎を確認しており、遺体の一部に軽度のやけどの跡があること等の不審な点については、「原因は不明であり、はっきりしていない。揚収時に操作された可能性もある」などと修正された。
 
そうした中、1968年7月21日に日本航空の727-100型機 (JA8318) (JA8318)で、本来は接地後にしか作動しないグランド・スポイラーが飛行中に作動するトラブルが発生し、その原因が機体の欠陥にあることが判明した。これを受け、事故機でもグランド・スポイラーが作動した可能性の調査が行われ、山名教授は模型による接水実験と残骸の分布状況から接水時の姿勢を推測し、迎え角が大きくなると主翼翼根部で失速が起き、エンジンへの空気の流れが乱れ異常燃焼を起こすことを風洞実験によって確かめ、「機体の不具合、もしくは設計ミスのためにグランド・スポイラーが立ったため、機首を引き起こし、主翼から剥離した乱流でエンジンの異常燃焼が起き高度を失い墜落したのではないか」というレポートを様々な実験データと共に調査団に報告した。しかし、この時点では第3エンジンの取りつけボルトの疲労破壊説は無視されている。最終報告書案ではそれらを取り上げずに終わった。最終報告書がまとめられるまでの間に提出された5件の草案の提出日は、次の通りである。
 
*第1次案 1968年4月26日
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== 備考 ==
* 1966年の5連続事故の最初の事故である(他の4つは[[カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故|カナダ太平洋航空機墜落事故]]・[[英国海外航空機空中分解事故|BOAC機墜落事故]]・[[日本航空羽田空港墜落事故]]・[[全日空松山沖墜落事故]]である)。
* 前述のアメリカ国内で発生した3件の同型機事故であるが、そのうち2件(11月8日に発生した{{仮リンク|アメリカン航空383便墜落事故|en|American Airlines Flight 383 (1965)}}・11月11日に発生した{{仮リンク|ユナイテッド航空227便墜落事故|en|United Airlines Flight 227}})パイロットの不適切な操縦が事故を招いたと推定されている。しかし8月16日に発生した[[ユナイテッド航空389便墜落事故|ユナイテッド航空389便事故]]は全日空機と同様アプローチ中に空港手前の[[ミシガン湖]]に墜落したが、最終的に原因不明とされた。
* 全日空遭難機の遺体捜索では、翌月([[1966年]][[3月5日]])に[[海上保安庁]]の[[ヘリコプター]]が墜落して二次遭難事故が発生し、乗員3名が死亡した。なお、同機は南極において[[タロとジロ]]を発見した機体の一つであり、3名のうちの1人はその時のパイロットだった。
* [[佐渡ヶ嶽部屋]]の幕内力士だった[[長谷川勝敏]]([[四股名]]・長谷川、後の[[年寄]]・秀ノ山)は、この60便で[[札幌市|札幌]]から[[東京]]へ帰る予定だったが、札幌市内でたまたま旧友と久々に会い、搭乗を取りやめたため奇跡的に難を逃れた<ref>[http://tsubotaa.la.coocan.jp/seki/m04.html#064 関脇以下名力士列伝]相撲評論家之頁</ref>。