「西園寺公晃」の版間の差分

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| 主君 = [[中御門天皇]]→[[桜町天皇]]→[[桃園天皇]]
| 氏族 = [[西園寺家]]
| 父母 = 父:[[西園寺致季]]、母:家女房<br />養父:''[[鷹司兼熙]]''
| 兄弟 = '''公晃'''、[[飛鳥井雅香|雅香]]、[[小倉宣季|宣季]]、[[今出川誠季|誠季]]、[[橋本実理|実理]]、[[大宮貞季|貞季]]
| 妻 = [[今出川伊季]]
| 子 = '''[[西園寺賞季|賞季]]'''、[[徳大寺実祖|実祖]]、[[今出川実種|実種]]
| 特記事項 =
}}
}}'''西園寺 公晃'''(さいおんじ きんあき)は、[[江戸時代]]中期の[[公卿]]。[[官位]]は[[従一位]]・[[内大臣]]。
 
}}'''西園寺 公晃'''(さいおんじ きんあき)は、[[江戸時代]]中期の[[公卿]]。[[左大臣]]・[[西園寺致季]]の子。[[官位]]は[[従一位]]・[[内大臣]]。
==経歴==
[[享保]]5年([[1720年]])に叙爵。以降[[清華家]]当主として速いスピードで昇進し、享保10年([[1725年]])には[[従三位]]となり[[公卿]]に列する。その後も[[踏歌節会]]外弁や[[中納言|権中納言]]を経て、享保17年([[1732年]])から[[元文]]3年([[1738年]])、[[寛延]]3年([[1750年]])から[[宝暦]]3年([[1753年]])までの二度にかけて[[大納言|権大納言]]を務めた。宝暦3年(1753年)に[[大歌所]]別当に補された。宝暦5年([[1755年]])に[[近衛府|右近衛大将]]に転じ、さらに[[内大臣]]となるも翌年に辞職した。宝暦10年([[1760年]])に[[従一位]]が授与される。
 
==系譜 経歴 ==
[[享保]]5年([[1720年]])に叙爵。以降[[清華家]]当主として速いスピードで昇進し、享保10年([[1725年]])には[[従三位]]となり[[公卿]]に列する。その後も[[踏歌節会]]外弁や[[中納言|権中納言]]を経て、享保17年([[1732年]])から[[元文]]3年([[1738年]])、[[寛延]]3年([[1750年]])から[[宝暦]]3年([[1753年]])までの二度にかけて[[大納言|権大納言]]を務めた。宝暦3年(1753年)に[[大歌所]]別当に補された。宝暦5年([[1755年]])に[[近衛府|右近衛大将]]に転じ、さらに[[内大臣]]となるも翌年に辞職した。宝暦10年([[1760年]])に[[従一位]]が授与される
 
宝暦5年([[1755年]])に[[近衛府|右近衛大将]]に転じ、さらに内大臣となるも翌年に辞職した。宝暦10年([[1760年]])に従一位が授与される。
 
== 系譜 ==
*父:[[西園寺致季]]
*母:家女房
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**次男:[[徳大寺実祖]](1753-1819)
**三男:[[今出川実種]](1754-1801)
 
==関連項目==
* [[西園寺家]]
 
{{西園寺家当主|29代}}