「内村鑑三」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Leonidjp (会話 | 投稿記録)
m #関連項目にて、本文中の内部リンクとの重複がある項目を除去。参考文献節を後ろへ移動。注釈と出典を分離。
Leonidjp (会話 | 投稿記録)
m WP:DEADREFと微修正
102行目:
 
=== 最初の結婚・離婚 ===
明治16年([[1883年]])夏に[[安中教会]]を訪問した時に知り合った[[浅田タケ]]と、両親の反対を押し切って明治17年([[1884年]])3月28日に結婚した。しかし、半年後には破局して離婚した。原因はタケの異性関係の疑惑とも言われている<ref>[[#関根1967|関根(1967)]]、25頁</ref><ref name="Mr.Kebel'sBlog">{{Cite web |url=http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/114668/111590/4426410?page=1|title=内村鑑三の離婚 |publisher= [[ケベル先生のブログ]] |accessdate= 2013-03-21 }}{{出典無効 |title=匿名者による個人ブログは出典として不適当でしょう。 |date=2019年6月15日}}</ref>。
[[File:Sapporo Dokuritsu Church.jpg|thumb|180px|内村と藤田九三郎の設計により1883年に竣工した札幌独立教会]]
=== アメリカ留学時代 ===
185行目:
[[File:Kanzo Uchimura Family in 1905.jpg|thumb|180px|right|[[日露戦争]]中の内村の父[[内村宜之|宜之]]と息子[[内村祐之|祐之]](1905年1月)]]
 
[[日清戦争]]は支持していた内村だったが<ref>「吾人は信ず、日清戦争は吾人にとりては実に義戦なりと」[[#内村1977|内村(1977)]]、308-311頁、(初出:{{Cite journal|和書|author=内村鑑三 |title=日清戦争の義|year=1894|month=9|title=日清戦争の義|journal=国民之友|publisher=民友社|url=http://homepage1.nifty.com/fujikikaku/uchimura/goroku/189409_justification_of_korean_war.htm |archiveurl=http://web.archive.org/web/20160913205313/http://homepage1.nifty.com/fujikikaku/uchimura/goroku/189409_justification_of_korean_war.htm |archivedate=2016-09-13}})</ref>、その戦争が内外にもたらした影響を痛感して[[平和主義]]に傾き、[[日露戦争]]開戦前にはキリスト者の立場から[[非戦論]]を主張するようになる。6月24日に[[東京帝国大学]]の[[戸水寛人]]ら7人の教授が開戦を唱える建議書を提出し、それが公表されると、同月6月に『戦争廃止論』を萬朝報に発表した。萬朝報も当初は非戦論が社論であったが、明治36年([[1903年]])[[10月8日]]、世論の主戦論への傾きを受けて同紙も主戦論に転じると、内村は幸徳秋水、堺枯川と共に萬朝報を離れることとなった<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920426/84 「幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三等 非戦論者=「萬朝報」を去る」明治36年10月12日萬朝報(新聞集成明治編年史編纂会編『新聞集成明治編年史 第12卷』林泉社、1936年、pp.117-118)]</ref>。
 
萬朝報退社後も、『聖書之研究』を通じて非戦論を掲げていたが、明治37年([[1904年]])2月には日露開戦にいたった。戦争中は、[[日本メソジスト教会]]の[[本多庸一]]や日本組合教会の[[小崎弘道]]らキリスト教の多数派が主戦論に傾いて積極的に戦争に協力したが、非戦論は内村や[[柏木義円]]などのきわめて少数であった。内村はキリスト者の間でも孤立していたものの、明治37年(1904年)のクリスマスを迎えた内村が、クリスマスは平和主義者の日であって「主戦論者はこの日を守る資格を有せず」と述べたことについては、[[中里介山]]が内村の言葉に拍手喝采を送り、半年後に『新希望』(『聖書之研究』の改題)に「予が懺悔」という文を寄せている。
201行目:
=== 幻の改訳聖書 ===
[[File:Ymcakaikan.jpg|thumb|180px|改訳作業を行った東京基督教青年会館]]
[[1888年]](明治21年)に[[明治元訳聖書]]が刊行されから、改訳を求める声が絶えなかった。そこで、[[警醒社]]がスポンサーになり、聖書の改訳を試みた。[[1905年]](明治38年)5月11日[[東京キリスト教青年会会館|東京基督教青年会館]]で改訳のための最初の会合が開かれ内村に[[植村正久]]と[[小崎弘道]]を加えた当時のキリスト教界の著名人と、新進気鋭の[[聖書学者]]の[[柏井園]]を加えた4名が集まった。そして、翌週5月18日から毎週1回の毎週木曜日に集まり明治元訳聖書の改訂作業をすることになった。最初に『[[ヨハネ伝]]』から改訳事業を始めた。7月6日には『ヨハネ伝』の3章まで進んだが、内村が業同作業に不満を覚えて、辞意を表明する。翌週7月13日の会合の次から夏休みになる。夏休み明けて9月14日に再開するが、小崎が渡米していたので、日本にいた内村と植村と柏井の3人で会合を持つ。しかし、内村は、11月6日付けで植村に脱退の手紙を送る。翌1月10日に改めて内村は、3人に病気を理由に辞退届を送り事実上改訳会は空中分解した<ref>{{Cite book |和書 |author=鈴木範久 |title=聖書の日本語』p. |publisher=岩波書店 |pages=117-118 |date=2006-02 |isbn=4000236644}}</ref>
 
=== 社会主義批判 ===
208行目:
内村は年を経るごとに、社会主義をさらに明確に批判していくようになり、[[大正]]4年([[1915年]])には、『聖書之研究』にて「社会主義は愛の精神ではない。これは一[[階級]]が他の階級に抱く敵愾の精神である。社会主義に由って国と国とは戦はざるに至るべけれども、階級と階級との間の争闘は絶えない。社会主義に由って戦争はその区域を変へるまでである」と主張した。
 
内村はキリスト者の立場から、他階級への抑圧を繰り返す社会主義の本質的欺瞞を指摘するとともに、後の社会主義思想の退潮を予言する、厳しい批判の言葉を残しているが、これらの言論を[[ロシア革命]]以前から発していたことは注目に値する。そして内村の社会主義批判の姿勢は、[[矢内原忠雄]]ら内村の後継者の一部にも引き継がれることとなった<ref>「矢内原にとって、キリスト教的観点に立てば唯物史観は偽キリストであり、矢内原がマルクス主義と対決してキリスト教弁護論を体系的に展開したのは、偽キリストからキリストを峻別するとともに、その挑戦に応じて現世同化したキリスト教を改革純化するためであった」(岡崎滋樹「矢内原忠雄研究の系譜-戦後日本における言説-」『社会システム研究』第24号(2012年3月)所収、立命館大学)</ref>。
 
=== 柏木時代 ===
292行目:
*: 邦訳 『余は如何にして基督信徒となりし乎』([[岩波文庫]])ほか ISBN 4003311922
* ''Representative Men of Japan''(『[[代表的日本人]]』 岩波文庫、のちワイド版)[[1908年]] - ''Japan and Japanese''([[1894年]])の改訂版
** [[ヘルマン・ヘッセ]]の父であるヨハネス・ヘッセは、上記『余は如何にして……』を1905年に、また本書を1908年に初めてドイツ語訳した人物として知られている。なおこの独訳本は、シュトゥットガルトのD.グンデルト社という出版社から刊行されたが、同社代表であったグンデルトはヨハネスの義兄弟にあたり、その息子のW.グンデルトは1906年に内村を慕って来日し、のちにドイツの日本学に多大な貢献をもたらす研究者となったことが知られている<ref>[[#鈴木1995|鈴木(1995)]]、196-197頁</ref>
* 『基督信徒のなぐさめ』 - 1893年の内村鑑三の処女作。「無教会」という言葉が初めて使われた作品である。岩波文庫(1976年、ISBN 4003311914)。
* 『求安録』 - 警醒社・福音社([[1893年]]8月)。のち岩波文庫(1939年、ISBN 4003311973)。
318行目:
* [[新渡戸稲造及び内村鑑三の門下生]]
* [[正宗白鳥]]
* [[山本一太]] - [[政治家]]、[[参議院議員]]。遠い親戚にあたる<ref>[{{Cite web |url=http://ichita.blog.so-net.ne.jp/2014-06-10-1 |title=偉大なる上州人、内村鑑三のDNA:その1] |date= 2014年6月10日 |author=山本一太 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20140819085345/http://ichita.blog.so-net.ne.jp/2014-06-10-1 |archivedate=2014-08-19 |accessdate=2019年6月15日}}</ref>。
* [[三浦政治]] - 主に北海道で活動した教育者。明治40年頃から鑑三より教えを受けたという<ref>{{Cite book|和書|authoreditor=松本成美・編|year=1978|title=迫害に抗して|publisher=三浦政治顕彰碑建立期成会|pagespage=55p55}}</ref>。
 
=== その他 ===