「戸沢正誠」の版間の差分

 
正誠は藩主権力を強めるため、[[万治]]3年([[1660年]])5月には家老の[[片岡理兵衛]]一族を殺害する([[片岡騒動]])。さらに税制の整備や検地、[[永松銅山]]の開発や寺社建立、[[城下町]]の建設、家臣の新規召し抱えなどの改革を多数行ない、また、治世が60年の長きにわたったことから藩政が安定化し、新庄藩は最盛期を迎えた。しかし正誠の治世末期から放漫財政のために財政の悪化が見え始める。[[宝永]]7年([[1710年]])2月16日、家督を養子の[[戸沢正庸|正庸]]に譲って隠居した。享保7年(1722年)2月3日、83歳で死去した。
 
『[[土芥寇讎記]]』では、悪くはないが、[[男色]]や[[美童]]好きを止めたほうが良い君主になれる、と評されている。
 
== 脚注 ==
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