「多利思比孤」の版間の差分
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中国風に姓と字に分割されているが、タラ(リ)シヒコは人名ではなく、日本語の意味を理解していなかった中国人が誤解したものという説がある<!-- 参考・後述書 『大王から天皇へ』 p.236.『王権をめぐる戦い』 p.53.「天垂らし彦」で倭王の一つの称号。 --><ref>[[森公章]] 『日本の時代史3 倭国から日本へ』 [[吉川弘文館]] 2002年 ISBN 4-642-00803-9 p.8.</ref><ref>編集[[白石太一郎]] [[吉村武彦]] 『新視点 日本の歴史2 古代編Ⅰ 古代►飛鳥時代』 [[新人物往来社]] 1993年 ISBN 4-404-02002-3 pp.313 - 314.</ref>。文献では、姓はアメ、字はタラシヒコと記述されているが、日本語では、「天垂らし彦」になり、天から垂れた(降りた)男子という意であり<ref>[[熊谷公男]] 『日本の歴史03 大王から天皇へ』 [[講談社]] 2001年 ISBN 4-06-268903-0 p.237.</ref><ref>[[岸俊男]] 『日本の古代6 王権をめぐる戦い』 [[中央公論社]] 1986年 ISBN 4-12-402539-4 p.53.</ref>、つまり「天孫」という意味になる。中国語では「[[天子]]」(『[[通典]]』では「天児」)がこれに当たるが、中国の天子とは意味が異なる<ref>『新視点 日本の歴史2 古代編Ⅰ』 p.314.</ref>。一方で、[[熊谷公男]]は『[[万葉集]]』の「天の原 振り放(さ)けみれば 大王の 御寿(みいのち)は長く '''天足らしたり'''」(巻二から一四七)の歌などを参考に、「天の満ち足りた男子」という意味の尊称と解釈している<ref>同『日本の歴史03 大王から天皇へ』 p.237.</ref>(この説は[[森田悌]]も支持している<ref>[[森田悌]] 『推古朝と聖徳太子』 [[岩田書院]] 2005年 ISBN 4-87294-391-0 p.145.</ref>)。森田悌は[[邪馬台国]]の時代では、「天垂らし彦」の称号があったとは考えがたいとし<ref>同『推古朝と聖徳太子』 p.145.</ref>、以後の時代に大陸思想の影響から芽生えたとみている<ref>同『推古朝と聖徳太子』 p.146.</ref>(また、「天子」という語が反感を受けたのに対し、「天垂らし彦」の反応が低かったことに注目している<!-- 同『推古朝と聖徳太子』 -->)。[[王仲殊]]も阿毎多利思比孤は「天足彦(天の満ち足りた男子)」とした(天垂らし彦説もあると紹介した)上で<!-- 後述書 pp.133 - 134. -->、この語の中にはすでに「天子」「天皇」といった意味が含まれており、これは最初の国書で日中両国の君主を共に「天子」と称したため、中国側の不快感をあおったところから、それぞれ天子を「皇帝」と「天皇」と呼び変えて区別を示したとする<ref>[[王仲殊]] [[西嶋定生]]監訳 [[桐本東太]]訳 『中国からみた古代日本』 [[学生社]] 1992年 ISBN 4-311-20181-8 p.145.</ref>。
== 脚注 ==
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