「両国 (東京都)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
19行目:
 
[[1878年]]([[明治]]11年)の[[東京15区|東京市15区]]創設後、西側を日本橋両国、東側を本所東両国と言うようになった。中央区側を西両国と表現するのは俗称である。
その後、[[両国駅]]の開業や[[両国国技館]]の開館にともない、両国という地名は次第に東両国を指すようになっていった。[[1971年]]には[[住居表示]]の実施にともない、中央区の日本橋両国は周囲の日本橋米沢町、日本橋薬研堀町などとあわせ[[東日本橋]]と改められ、現在は中央区東日本橋二丁目となっている。一方、墨田区側はすでに[[1967年]]、東両国から両国へ改称されている。
 
東日本橋地区内には東日本橋二丁目両国町会、東日本橋両国[[商店街]]が存在した。現在は共に名称を変更し、東日本橋二丁目町会、東日本橋やげん堀商店会(2004年前後)となった。
26行目:
両国広小路は、両国橋西詰めの、現在の中央区東日本橋に設けられた火除地(広場)である。[[明暦の大火]]の教訓を元に整備され、[[江戸三大広小路]]のひとつにあげられる。[[見世物小屋|見世物]]などの小屋が立ち並んで賑わった。現在、両国橋西[[交差点]]付近に、「両国広小路記念碑」が設けられている。
 
なお、墨田区側のJR[[両国駅]]前には、[[2013年]]に「両国駅広小路」という広場が整備されているが、かつての両国広小路とは位置が異なる。
 
詳しくは[[両国広小路]]の項を参照のこと。
93行目:
吉良邸に[[赤穂浪士]]が討ち入った[[赤穂事件]]の舞台として知られている。現在そのごく一部が吉良邸跡として保存され、区立[[本所松坂町公園]]となっている。
 
近代、墨田区側の両国が全国に知られているのは[[両国国技館]]によるところが大きいと思われる。[[1909年]]に完成し[[1944年]]まで使用された旧両国国技館は、両国二丁目の[[回向院]]の旧境内にあった。その後、[[蔵前国技館]]への移転を経て、[[1985年]]に新しく完成した現・両国国技館は、[[両国駅]]の北側、墨田区[[横網]]に位置している。
 
* [[1702年]](元禄15年)- [[赤穂事件]]が起こる。