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オクヤマ (会話 | 投稿記録)
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曹丕は、以前に借財を拒絶された経緯から曹洪を恨んでいたため、曹洪の食客が罪を犯した時、曹洪をそれに連座させて死罪に処そうとした。群臣達は曹洪の赦免を求めたが、救う事ができなかった。また、曹真もこれを諌めたが果たせなかった(『魏略』)。結局は[[武宣皇后卞氏|卞太后]](曹丕の生母)の取り成しによってようやく死罪を免れたが、所領と爵位を削られた。この処置に、曹洪の功績を知る多くの人達は釈然としない思いであったという。財産も一時没収されたが、卞太后の計らいで戻されている(『魏略』)。曹洪は死罪を免れた事を喜び、謙った内容の上書をして陳謝したという(『魏略』)。
 
黄初7年([[226年]])、曹丕が死去崩御し[[曹叡]](明帝)が即位すると、曹洪は[[後将軍]]に任命され、改めて楽城侯に封じられ、1000戸の領邑を与えられた。特進を加えられ、再び驃騎将軍に任命された。
 
曹叡の時代、乳母の当が[[洛陽市|洛陽]]において法に違反し、[[司馬芝]]に処刑されそうになった時、卞[[太皇太后]]がこれを救おうとしたが、司馬芝は処罰を覚悟で法を執行し、当を処刑してしまった(「司馬芝伝」)。