「本間光丘」の版間の差分

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[[通称]]は、はじめ久四郎。[[諱]]は光丘。父は庄五郎。
 
== 経歴 ==
[[本間氏#酒田本間氏|本間家]]は、当初[[相模国]][[愛甲郡]]本間村にいたため、[[本間氏]]を称したとされる。子孫は[[鎌倉時代]]初期、[[佐渡国|佐渡]]および[[越後国|越後]]に移り、その分家が[[足利季綱]]のとき出羽庄内に移る。光重(光繁とも)に到って[[永禄]]年間、酒田に住んだ。庄三郎のときに酒田の長人になり、家は次第に栄えた。
 
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ときに江戸藩邸が焼失し、そのうえ[[徳川家慶]]の加冠の謝恩使を命じられるなどして財政が窮乏を極めたが、[[安永]]4年([[1775年]])、藩主・[[酒井忠徳]]の命をもって藩の財政改革に携わり、大いに奔走したが、これを妬む者もあったためついにこれを辞した。藩主の命により再びこれにあたり、功績は大いに上がった。
 
[[天明]]8年([[1788年]])、藩士が[[富士川]]、[[大井川]]、[[安倍川]]の修治を命じられると、藩命によって大の巨商から資金を借り入れ、事を弁じた。
 
[[寛政]]3年([[1791年]])に[[米沢藩]]主[[上杉治憲]](鷹山)により、[[隠居]]の身から中老に就任した[[莅戸善政]]は、寛政6年([[1794年]])に四郎三郎を酒田に訪ね、これから金穀を借り軍備を修め、田地の[[開拓]]などをすることができた。鷹山の治績がおおいに上ったのは、江戸の三谷、越後の渡辺に加えて、四郎三郎の献替が大きかったという。