「南京事件」の版間の差分
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安全区内の人口は南京陥落直後は約20万人(諸説あり)との推測値があり、南京城内の南京安全区以外の区域は住民が少ない状況となった<ref>「南京難民区の百日 虐殺を見た外国人」 [[笠原十九司]] [[岩波現代文庫]] [[岩波書店]]78-82頁</ref>。
南京安全区(別称:難民区)に対しては、日本軍は砲撃を仕掛けなかった(いわゆる「ラーベの感謝状」{{refnest|group="注釈"|「ラーべの感謝状」とは、1937年12月14日に[[南京安全区国際委員会]]の[[ジョン・ラーベ]]より日本軍に提出された文書「南京安全区トウ案」第1号文書(Z1)のことである<ref>『日中戦争史資料9』河出書房新社 (1973)p120.田中正明『南京事件の総括』p176</ref>。この文書の冒頭には「貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことにたいして感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります。」とある。}})。また占領後も日本軍は組織的な住民虐殺を行っていないが、ただし、安全区内でも個々の暴虐(例:敗残兵狩りによる一般人の誤認逮捕と区外連れ出し後の処刑など)の記録はあり、決して過少ではない<ref>「南京大残虐事件資料集 第2巻」 103-104頁など</ref><ref>[[#秦 (2007)|秦 (2007)]]、132-134頁</ref>。また、その後、安全区の人口が5万人ほど増えたとされるが、欧米人が設置した安全区が南京市内の中で安全であり、荒廃した市内などから安全区に移動したとされる<ref>「南京の真実」ジョン・ラーベ p215-6。</ref>なお、安全区の人口については、[[南京事件論争#人口推移]]、[[南京事件論争#人口推移の論点]]を参照。
=== 南京事件の被害者(中国兵) ===
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