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但し外交的には覇権国英米との関係を重視し、この頃[[第一次世界大戦]]の敗北から立ち直り、急速に軍事力を強化していた[[ドイツ]]との接近には常に警戒していたため、岳父・[[牧野伸顕]]との関係とともに枢軸派からは「親英米派」とみなされた{{refnest|group="注"|ただし、[[大村立三]]は著書の中で、戦前において対英米関係とアジア進出の両立を唱える外交官をその政策から前者重視を「英米派」、後者重視を「アジア派」と呼んで区別し、前者として幣原喜重郎・重光葵・[[佐藤尚武]]・芦田均を挙げ、後者として吉田と[[有田八郎]]・[[谷正之]]を挙げている。また、奉天総領事・外務次官として東方会議をはじめとする「田中外交」を支えた吉田は、幣原や重光と比較した場合にはアジア進出に対してより積極的であったとする見解をとっている。<ref>[[大村立三]]『日本の外交家 300人の人脈』</ref>}}。[[統計]]をつかさどる[[中央統計委員会]]委員を兼ねた{{sfn|内閣印刷局|1935|p=2}}<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201902/CK2019021902000147.html 吉田元首相「統計正確なら戦争なかった」幼い麻生氏に言い聞かせ]、[[東京新聞]]、2019年2月19日朝刊。</ref>。1936年は、[[二・二六事件]]から2か月後に駐[[イギリス]]大使となった。大命を拝辞した盟友の[[近衛文麿]]から広田への使者を任されて[[広田内閣]]で組閣参謀となり、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]・[[内閣書記官長]]を予定したが、[[寺内寿一]]ら[[日本陸軍|陸軍]]の反対で叶わなかった。駐英大使としては日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。また、[[日独防共協定]]および[[日独伊三国同盟]]にも強硬に反対した。1939年待命大使となり外交の一線からは退いた。
 
[[太平洋戦争]](大東亜戦争)開戦前には、[[ジョセフ・グルー]]米大使や[[東郷茂徳]]外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、開戦後は牧野伸顕、元首相近衛ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事([[ヨハンセングループ]])し、[[ミッドウェー海戦]]を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、その後の日本軍の勝利などにより成功しなかった。

その後、日本の敗色が濃くなると、[[殖田俊吉]]を近衛文麿に引き合わせ後の[[近衛上奏文]]につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイ(=[[東輝次]])によって[[1945年]](昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し[[憲兵 (日本軍)|憲兵隊]]に拘束される。ただし、同時に拘束された他の者は雑居房だったのに対し、吉田は独房で差し入れ自由という待遇であった(親交のあった[[阿南惟幾]]陸相の配慮によるものではないかとされている){{Sfn|有岡二郎|2001|p=75}}。40日あまり後に不起訴・釈放となったが{{refnest|group="注"|牧野伸顕の義妹の嫁ぎ先[[宮崎県]]の旧[[高鍋藩]]主家[[秋月氏|秋月家]]の縁で高鍋出身の海軍大将[[小沢治三郎]]を頼るようアドバイスを受け、そのツテで[[軍令部]]次長の小沢に「[[イギリス]]を通して講和を進めるために荷物扱いでもいいから[[潜水艦]]か[[航空機]]で自分を運んで欲しい」と懇願したが、小沢は十中八九沈められる旨と憲兵隊に目を付けられている点を指摘し丁重に断った。憲兵隊に拘束されたのはその翌日だったと、吉田は自著に記している。{{Sfn|回想十年|}} }}、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる{{Sfn|有岡二郎|2001|p=75}}{{Sfn|実録首相列伝|2003|p=98}}。
 
=== 第二次世界大戦後 ===