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[[604年]]、文帝が死去すると、[[煬帝]]が楊諒を召還しようとしたが、楊諒は赴くことなく、ついに起兵して叛いた。総管司馬の[[皇甫誕]]が諫めたが、楊諒は怒って彼を収監した。王頍は全軍をもって[[関中]]を突くか、もしくは旧[[北斉]]の地に割拠するという2策を示したが、楊諒は選ぶことができず、2策を併用することとなった。総管府兵曹の裴文安が、兵を分遣して要路を守り各地を攻略させ、裴文安を先鋒として楊諒自身は関中に向かうように進言すると、楊諒は裴文安の進言を採用した。自らの任じた[[大将軍]]の余公理には太谷を出て河陽に赴かせ、大将軍の綦良には滏口を出て[[黎陽]]に赴かせた。大将軍の劉建には[[井陘]]を出て河北の地を攻略させ、柱国の喬鍾葵には雁門に出させた。裴文安を柱国に任じて、紇単貴・王聃・茹茹天保・侯莫陳恵らには[[長安]]に向かわせた。
 
蒲津まで100里余りのところにきて、楊諒は考えを変え、紇単貴に命じて[[黄河]]の橋を落として[[蒲州]]を守らせ、裴文安を召還した。裴文安は諫めたが、楊諒は答えず、王聃を蒲州刺史とし、裴文安を[[晋州]]刺史とし、薛粹を[[絳州]]刺史とし、梁菩薩を[[ロ州|潞州]]刺史とし、韋道正を[[韓州]]刺史とし、張伯英を[[沢州]]刺史として守らせた。
 
煬帝は[[楊素]]に騎兵5000をつけて派遣した。楊素は王聃・紇単貴を蒲州で撃破した。楊素は4万の兵を率いて太原に向かい、趙子開を高壁で撃破した。楊諒は楊素の進軍を蒿沢で阻止しようとしたが、大雨に遭い、王頍の諫めも聞かずに軍を返して、清源に退き守った。楊素が清源に進撃すると、楊諒の率いる軍は隋の官軍と対戦して、死者1万8千人を出した。楊諒は并州に撤退し、楊素が兵を進めて并州を包囲した。楊諒は逼塞して楊素に降伏した。隋の百官は楊諒の罪が死罪に相当すると上奏したが、煬帝は兄弟の情において忍びないとして、楊諒の官爵を剥奪して庶人に落とした。楊諒は幽閉の末に死去した。