「国民革命軍」の版間の差分

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[[ファイル:Countermand concession.jpg|thumb|国民革命軍の歩兵|代替文=]]
[[ファイル:NRA cavalry.jpg|thumb|国民革命軍の騎兵隊]]
国民革命軍は、370個の[[師団]]('''整編師''')、46個の新編師団('''新編師)'''、12個の騎兵師団('''騎兵師''')、8個の新編騎兵師団('''新編騎兵師''')、66個の臨時師団('''暫編師''')、13個の予備師団('''預備師''')の以上が内訳となる総計515おおよそ440個の[[師団('''師''')]]を1925年から1947年の間にかけて編制していた。その総兵員数は430万人であった。建軍前期の各師団の定員数は5千から6千人であり、日本など他の近代軍隊の師団が1万から1万5千人だったのに比べてはるかに少なかった。[[中独合作]]の下でドイツ式の編制と訓練を施された[[国民革命軍ドイツ訓練師団|ドイツ式師団]]('''徳械師''')の定員は1万4千人となっており<ref>[[:en:German-trained_divisions]]</ref>、他の師団も徐々に定員の増強が図られた。新編師団は抗日戦争前に再編ないし編制されたものであり、装備と部隊構成がやや改新されていた。師団の大半はその充足率が低く、前線に投入されて稼働状態になる際は他の師団が複数個編入されて数合わせされる事が多かったので、同時に活動している実際の師団数はずっと少なかったと言う。国民革命軍の全師団は、国民党直属の師団と新編師団、各軍閥の私設師団、共産党師団の寄せ集めであったので装備と練度と規律に大きなばらつきがあった。1941年当時は述べ380万人の兵士が動員されており、246個の師団が前線で活動し、70個の師団が後方に置かれていた。
 
師団は軍政上の基本単位でもあり、各師団は'''教導團'''と称される新兵教育部署を備えていたので、それぞれが独自に兵士の募集または強制徴募を行なって人数を揃えていた。前線へ向かう際はほとんどの場合、作戦上の基本単位である'''軍'''の下に編入されて行動した。軍は2個師団を動かし、それを支援する砲兵連隊('''砲兵團''')と工兵連隊('''特務團''')を追加されて実戦部隊としての戦力を完成させた。
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#集團軍と軍の間
#*'''路軍''' -- 2個以上の軍を持った。集團軍の小型版。1929~1937年まで存在。
#*'''方面軍''' -- 集團軍の下で2個以上の軍を指揮した。1926~28年までと44年に存在。
#*'''軍團''' -- 集團軍の下で2個以上の軍を指揮した。1928年から。
#'''軍''' -- 軍団に相当する。2個以上の歩兵師と砲兵團と特務團(工兵)を持った。
#'''師''' -- 師団に相当する。2個の旅と教導團(新兵教育部署)を持った。
#'''旅''' -- 旅団に相当する。2個の團を持った。2個以上の團を持つ'''独立旅'''は師の小型版だった。
#'''團'''(団) -- 連隊に相当する。ここから全軍中の通し番号が振られた(方面軍を除く)
#'''營'''(営) -- 大隊
#'''連''' -- 中隊
#'''排''' -- 小隊
#'''班''' -- 分隊
 
軍隊編制上の基本単位は'''師'''であり、各師が持つ教導團が兵員の募集または強制徴募を行なって独自に人数を揃える仕組みとなっていた。各師は通常2個の旅ナンバーと4個の團ナンバーを連番で軍中央から与えられており、師の全兵員は師長の裁量で分割され、前述のナンバーを振られて旅と團が作られていた。ナンバーは全軍中で一意なものだった。團は連隊に相当するが、日本の様に各郷土ごとに組織されて下から師団を組み立てるものではなく、師を分割して上から組織される点で異なっていた。なお、[[国民革命軍ドイツ訓練師団|ドイツ式師団]]と砲兵や工兵および機甲部隊などの團は軍中央の下で計画的に組織された。戦術上の基本単位は'''軍'''であり、通常2個の師団を砲兵團と特務團の支援下で連携させて実働戦力を完成させた。
 
指揮官の称号は、戦区は司令長官、兵団は司令官、集団軍は総司令、路軍と方面軍は総指揮で、当時は日本式に倣っていた。他は軍団長、軍長、師長、旅長、團長であった。