「河東の乱」の版間の差分

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[[桶狭間の戦い]]で今川義元が[[織田信長]]に討たれて以降、今川氏は[[三河松平氏]]([[徳川氏]])の自立など急速に勢力を弱め、[[永禄]]10年(1567年)武田晴信(信玄)は、駿甲同盟の破棄を宣言した<ref>池上(黒田編:2018年)、P365</ref>。
 
永禄11年、武田晴信は[[徳川家康]]と連合して今川領に侵攻、富士川を下って駿府を占領すると、[[北条氏政]]は今川氏救援を名目に河東地域に進出して武田氏に寝返った[[葛山氏元]]を排除すると、興国寺城・[[深沢城]]・[[久保]]・[[吉原城]]・[[蒲原城]]などを占領した。氏政は武田氏に抵抗する地元の国衆から所領の安堵を求められるが、氏政はあくまでも遠江に逃れた[[今川氏真]]の名代の形式で安堵を行っている。翌永禄12年([[1569年]])4月に[[掛川城]]で徳川家康に降伏した氏真夫妻は北条領に送られ、晴信も一旦撤退した<ref>池上(黒田編:2018年)、P366-368・372-373</ref>。
 
ところが、これを見た北条氏政は一転した河東を含めた今川領全域の併合に方針を転換、氏真に自分の嫡男である国王丸([[北条氏直]])を養子として将来的に家督を譲るように迫り承諾させ、これによって氏政は国王丸の後見として氏真の闕所処分権・知行宛行権に関与する権限を得ると共に今川氏を後北条氏の従属大名化させることに成功して、北条家臣に駿河の所領を与え始めた。ただし、今川家臣団に対する軍事指揮権は氏政が握ったものの、所領に関しては氏政ー氏真ー今川家臣という原則が守られていた。しかし、これに不満な今川氏真は妻の[[早川殿]](北条氏康の娘・氏政の妹)と共に徳川家康の元に逃れ、また関東地方の状況も不安定なこと(関宿合戦)からこの構想も綻びが現れた<ref>池上(黒田編:2018年)、P369-372</ref>。
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