「サン・ファン・バウティスタ号」の版間の差分
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復元船の重量は387t、復元費用は約17億円<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0304/NGY201303040017.html?ref=rss 一本松に続け、政宗の遣欧船よ再び 愛知の会社が修復]([[朝日新聞]] 2013年3月5日)</ref>。
== 航海 ==
[[Image:HasekuraWithShipDetail.jpg|thumb|250px|サン・ファン・バウティスタ号は[[1617年]]、[[ローマ]]の[[支倉常長]]と共に描かれている;Claude Deruet画<br>[[ガレオン船]]の[[帆]]の先端に、支倉の旗(オレンジ色の旗に赤い[[鉤十字]])が見える]]
[[ファイル:Hasekura Travels.jpg|サムネイル|250px|
[[ファイル:NicolasCardona1632.jpg|サムネイル|250px|スペインで1632年に刊行された本のアカプルコ湾に、日本の船が描かれており(図中のDの船)、1614年-15年に停泊していたサン・ファン・バウティスタ号でないかと見られている。]]
=== 第一回往航海(月浦ーアカプルコ) ===
[[1613年]][[10月28日]](慶長18年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]])に当時'''[[ヌエバ・エスパーニャ|ノビスパン]]'''=新イスパニアと呼ばれていた[[メキシコ]]の[[アカプルコ]]を目指して、仙台藩・陸奥国[[牡鹿郡]]月浦(つきのうら。現・宮城県石巻市月浦。{{ウィキ座標|38|22|55.7|N|141|25|39.8|E|region:JP|地図|name=月の浦(サン・ファン・バウティスタ号の出航地)}})から出航した。これを記念して月の浦港には、海軍[[元帥]][[東郷平八郎]]の石碑などが現存する。乗員180名(将軍下の[[侍]]:10名、仙台の侍:12名、日本人商人、水夫、家来:120名、イスパニア人・[[ポルトガル]]人:40名。ルイス・ソテロとセバスティアン・ビスカイノ(便乗)。航海には[[アンドレス・デ・ウルダネータ]]が[[1565年]]に開拓し[[マニラ・ガレオン]]が用いていたウルダネータの航路を使用した。操船はサンフランシスコ号乗組員の、船長ベニト・デ・パラシオ、水先案内人ロレンソ・パスケスらのイスパニア人航海士や水夫が行い、日本人水夫等はその下働きで操船術を体験した。船は[[北太平洋海流]]に乗って東進し、12月26日に北アメリカのメンドシノ岬(北緯40度26分[[サンフランシスコ]]の北方300km)を視認し、ここから[[カリフォルニア海流]]に乗って南下し、[[1614年]][[1月25日]](慶長18年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]])、3ヶ月の航海でアカプルコに到着した。当時は[[パナマ運河]]がないため、支倉とソテロは陸路でメキシコ市を経由して大西洋側に移動して別船にて[[ヨーロッパ]]へ向かった。
=== 第一回復航海(アカプルコー浦賀) ===
1年3ヶ月の停泊後、[[1615年]][[4月28日]](慶長20年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]])、スペイン国王使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ神父、{{要出典範囲|date=2017年1月|仙台地域の[[鉱山]]産業の発展の為に約50人の鉱山業・[[銀]]精製業の専門家を乗せてアカプルコを出航した}}。船はマニラ・ガレオンが用いていた[[北赤道海流]]に乗って[[フィリピン]]東方に達し、ここから[[黒潮]]に乗って北上し[[1615年]][[8月15日]](慶長20年[[閏]][[6月21日]])3ヶ月半の航海で浦賀に到着した。
=== 第二回往航海(浦賀ーアカプルコ) ===
[[1616年]][[9月30日]](元和2年[[6月20日]])、ルイス・ソテロの要求で再びアカプルコを目指して浦賀を出航(船長:[[横沢将監]](しょうげん))。スペイン国王使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ神父らスペイン人10人、[[向井将監]]派遣の船頭ら日本人200人が同乗。その航海中に悪天候他で船頭を含む約100名の水夫が亡くなった。[[1617年]][[2月23日]](元和3年[[1月18日]])にカリフォルニアのロス・モリネスに到着した。その後、アカプルコへ航行した。
=== 第二回復航海(アカプルコーマニラ) ===
ソテロと支倉は日本へ帰る為にメキシコで再会し[[1618年]][[4月2日]](元和4年[[3月7日]]) に横沢将監指揮の元でアカプルコを出航し、[[1618年]][[8月10日]](元和4年[[6月20日]])にルソン(今のフィリピン)のマニラに到着したが、[[オランダ]]軍への防衛を固めていたイスパニアへ売却を余儀なくされた。
その後の詳細は不明であり、イスパニア戦艦としてミンダナオ島方面へ向かったなど複数の説がある。2018年には[[アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史|アメリカの奴隷史]]研究を行う『Project 1619<ref>[http://www.project1619.org/ Project 1619 Inc.]</ref>』に参加している歴史家の調査により、[[奴隷貿易]]に関わっていたという説が提唱された<ref>[https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201811/20181126_13022.html サン・ファン号、奴隷運ぶ? マニラで売却後の足跡に新説 米の歴史家提唱 ] - [[河北新報]]</ref>。
=== 航海終了後 ===
支倉以下使節団は約2年のマニラ滞在後、別の船で、[[1620年]]8月下旬、長崎へ到着。[[1620年]][[9月20日]](元和6年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]])、丸7年振りに仙台へ帰国した。
支倉が帰還
これらの
航海と訪欧の記録は航海日誌を筆頭に全て帰国前に廃棄されており、日本側に支倉使節団とサン・ファン・バウティスタ号の航海に関する公的記録文書は残らなかった。バチカンの教皇庁宝物館には、伊達政宗が「奥州王」の名で送った親書が今も保管されている。
この伊達政宗親書や、支倉常長がローマ
== 現在 ==
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