「近衛文麿」の版間の差分

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近衞は憲法改正作業をマッカーサーから委嘱されたことにより、新時代の政治的地位を得ることができたと考えていた。また[[池田成彬]]に対して「あなたは戦犯になるおそれがある」と語るなど、戦犯裁判にかけられるとはみていなかった<ref name="shusenshi" />。しかし国内外の新聞では徐々に支那事変、三国同盟、大東亜戦争に関する近衞の戦争責任問題が追及され始める。10月26日の『[[ニューヨーク・タイムズ]]』では、「近衞が憲法改正に携わることは不適当である」として「近衞が戦争犯罪人として取り扱われても誰も驚かない」と論じた。
 
[[白洲次郎]]たちは近衞がマッカーサーに憲法改定を託されたことを宣伝して回り、近衞を助けようと試みたが、11月1日にGHQは憲法改正について「東久邇宮内閣の副首相としての近衞に依嘱したことであり、内閣総辞職によって当然解消したもの」と表明し、総司令部は関知しないという趣旨の声明を発表した。憲法改正をマッカーサーから依嘱されたものと信じていた近衞にとっては大きな打撃であった<ref>矢部貞治『近衞文麿』(読売新聞社)738-739頁</ref>。マッカーサーとの会見が行われたのは確かに近衞が東久邇宮内閣で副首相の職にあった時だが、憲法改正に関する詳細な打ち合わせを当局者と行った時点で近衞は既に東久邇宮内閣の総辞職によって私人となっており、声明はGHQが近衞の切り捨てを図ったものであった。こののちGHQによる近衞の戦争責任追及が開始された。近衞は11月9日に東京湾上に停泊中の砲艦アンコン号に呼び出され、軍部と政府の関係について[[米国戦略爆撃調査団]]による尋問が行われた。尋問はかなり厳しいものだったようで、尋問を終えた近衞は「尋問はそれはひどいものでしたよ。いよいよ私も戦犯で引っ張られますね」との予測を述べている。GHQ参謀部第2部の対敵情報部調査分析課長の[[エドガートン・ハーバート・ノーマン]]は、大政翼賛会の設立などファッショ化に近衞が関与したことおよびアジア侵略・対米開戦に責任があることを指摘するレポート「戦争責任に関する覚書」を11月5日にアチソンに提出した。11月17日、アチソンはこれを[[バーンズ]]国務長官に送付した<ref>林千勝「支那事変と敗戦で日本革命を目論んだ者たち」『正論』2016年5月号、pp.85</ref>
 
12月6日に、GHQからの逮捕命令が伝えられ、[[A級戦犯]]として[[極東国際軍事裁判]]で裁かれることが最終的に決定した。近衞は[[巣鴨拘置所]]に出頭を命じられた最終期限日の[[12月16日]]未明に、荻外荘で[[シアン化カリウム|青酸カリ]]を服毒して自殺した。54歳2ヶ月での死去は、日本の総理大臣経験者では、もっとも若い没年齢である。また総理大臣経験者として、死因が自殺である人物は近衞が唯一でもある<ref group="注釈">東條英機も、戦犯訴追を逃れるために自殺を図ったとされるが未遂に終わっている</ref>。最新の資料によると他殺の可能性も出てきている<ref>{{Cite book|和書 |author=[[林千勝]] |title=近衛文麿 野望と挫折 |date=2017-11-24 |accessdate= |publisher=ワック}}</ref>。
ノーマンはこの覚書の中で、一度も会ったことのない近衛について「淫蕩なくせに陰気くさく、人民を恐れ軽蔑さえしながら世間からやんやの喝采を浴びることをむやみに欲しがる近衛は、病的に自己中心的で虚栄心が強い。彼が一貫して仕えてきた大義は己自身の野心にほかならない」と述べている。ノーマンの近衛に対する心証は、家族ぐるみの極めて親しいつきあいをしていた[[風見章]]と、[[ハーバード大学]]時代の[[共産主義]]同志で義理の伯父に[[木戸幸一]][[内大臣]]をもつ[[都留重人]]からの詳細な情報提供によって形成されたのではないかと指摘されてる<ref>林千勝「支那事変と敗戦で日本革命を目論んだ者たち」『正論』2016年5月号、pp.85</ref>。
 
自殺の前日に近衞は次男の[[近衛通隆]]に遺書を口述筆記させ、「自分は政治上多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない…僕の志は知る人ぞ知る」と書き残した。この遺書は翌日にGHQにより没収された。
 
なお、近衛の出頭について[[吉田茂]]外相が近衛の自殺の直前にマッカーサーとの面会で「近衛は自宅監察とする」との見通しを聞いており、また病気を理由に出頭を延期できる見込みもあった。吉田は近衛の自殺を知り、「自分が近衛に逢って伝えていたら」と悔やんでいたという{{Sfn|升味|p=105}}。
 
葬儀は[[12月21日]]に行われた。[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]の[[大徳寺]]に「近衛家廟所」が在り、文麿の墓所はその地に在る。
 
 
== 人物 ==
[[画像:Fumimaro Konoe suit.jpg|200px|thumb|近衞]]
=== 戦争責任について ===
近衞は兼ねて[[1921年]](大正10年)の演説で、[[統帥権]]によって将来軍部と政府が二元化しかねない危険性を説き、後にそれが現実となった形だった。しかし当時連合国軍総司令部の中心となっていたアメリカ側にはこのような状況は理解し難い内容であった。
 
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政治学者の[[猪木正道]]も、近衛と広田弘毅の無責任振りを批判しており、著作を読んだ昭和天皇は「猪木の書いたものは非常に正確である。特に近衛と広田についてはそうだ」と猪木の評価を肯定している<ref>服部、194-195p(『猪木正道著作集』第四巻、[[岩見隆夫]]『陛下の御質問 昭和天皇と戦後政治』よりの引用)</ref>。
 
12月6日に、GHQからの逮捕命令が伝えられ、[[A級戦犯]]として[[極東国際軍事裁判]]で裁かれることが最終的に決定した。近衞は[[巣鴨拘置所]]に出頭を命じられた最終期限日の[[12月16日]]未明に、荻外荘で[[シアン化カリウム|青酸カリ]]を服毒して自殺した。54歳2ヶ月での死去は、日本の総理大臣経験者では、もっとも若い没年齢である。また総理大臣経験者として、死因が自殺である人物は近衞が唯一でもある<ref group="注釈">東條英機も、戦犯訴追を逃れるために自殺を図ったとされるが未遂に終わっている</ref>。
 
最新の資料によると他殺の可能性も出てきている<ref>{{Cite book|和書 |author=[[林千勝]] |title=近衛文麿 野望と挫折 |date=2017-11-24 |accessdate= |publisher=ワック}}</ref>。
 
自殺の前日に近衞は次男の[[近衛通隆]]に遺書を口述筆記させ、「自分は政治上多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない…僕の志は知る人ぞ知る」と書き残した。この遺書は翌日にGHQにより没収された。
 
葬儀は[[12月21日]]に行われた。[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]の[[大徳寺]]に「近衛家廟所」が在り、文麿の墓所はその地に在る。
 
朝日新聞において12月20日から『近衛公手記』が11回に渡り掲載された。開戦前の日米交渉に自身が果たした役割が語られている。これを読んだ昭和天皇は「近衞は自分にだけ都合の良いことを言っているね」と呆れ気味に語っている<ref>{{Cite book|和書 |author=[[藤田尚徳]] |year=1987 |title=侍従長の回想 |publisher=[[中央公論社]] |isbn=4122014239}}</ref>。
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'''近衛が本当に不拡大方針を貫くなら、拡大作戦が出来ないように臨時軍事費を予算案から削れば、それで目的が達せられる'''。彼にはそれだけのことを行う勇気がなかった。というより軍に同調してナチスばりの政権を樹立したい意向があった。'''園遊会で彼はヒトラーの仮装をしているが、翼賛会をつくりナチス授権法のような形で権力を握って『革新政治』を行いたいのが彼の本心であったろう'''。」<ref>裕仁天皇の昭和史(山本七平著、祥伝社、2004年初版発行)161~163頁</ref>}}
 
== 人物 ==
[[画像:Fumimaro Konoe suit.jpg|200px|thumb|近衞]]
 
=== ゾルゲ事件との関わり ===
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* [[木戸幸一]]は近衞のことを「激動期をなんでも相談した仲」とした上で、晩年次にように回想している。
{{quotation|柔軟で包容力があるというか、まことに「聞き上手」だったね。また開放的性格のためか、国民の間になんとも言えない人気があった。しかも陛下のおぼえもよかったから、あれに一本筋金が入っていたら、まったくかんぺきと言っていいのだが……。ところがいざというときのふんばりがたりない。そこでいつも困ったんだ。|大平進一「木戸幸一、天皇を語る」、『文藝春秋』昭和50年10月号<ref>引用は『昭和天皇の時代』(文藝春秋社、1989年)pp.74-75に拠る。</ref>}}
 
一方、ノーマンは近衛を尋問した際の覚書の中で、一度も会ったことのない近衛について「淫蕩なくせに陰気くさく、人民を恐れ軽蔑さえしながら世間からやんやの喝采を浴びることをむやみに欲しがる近衛は、病的に自己中心的で虚栄心が強い。彼が一貫して仕えてきた大義は己自身の野心にほかならない」と述べている。ノーマンの近衛に対する心証は、家族ぐるみの極めて親しいつきあいをしていた[[風見章]]と、[[ハーバード大学]]時代の[[共産主義]]同志で義理の伯父に[[木戸幸一]][[内大臣]]をもつ[[都留重人]]からの詳細な情報提供によって形成されたのではないかと指摘されてる。なお、ノーマンはこの時が近衛と初対面であった<ref>林千勝「支那事変と敗戦で日本革命を目論んだ者たち」『正論』2016年5月号、pp.85</ref>。
 
== 家族・親族 ==
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*{{Cite book|和書 |author=[[道越治]] [編著] |author2=松橋暉男/松橋雅平 [監修] |title=近衛文麿「六月終戦」のシナリオ |publisher=毎日ワンズ |isbn=4901622153 |ncid= BA76700116 |year=2006}}
*林千勝『日米戦争を策謀したのは誰だ!ロックフェラー、ルーズベルト、近衛文麿そしてフーバーは』 WAC ISBN 978-4-89831-481-4 (2019/2/27)
 
*{{Cite book|和書|author=[[升味準之輔]]|title=戦後政治 上|publisher=東京大学出版会|date=1983-5-10|isbn=|ref={{SfnRef|升味}}}}
 
== 関連作品 ==