「コンスタンス2世」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m →生涯 |
|||
31行目:
641年、祖父・[[ヘラクレイオス]]の死により父・コンスタンティノス3世が即位したが、異母兄弟の[[ヘラクロナス]](ヘラクレイオスとその姪[[マルティナ (東ローマ皇后)|マルティナ]]の子)との間に皇位をめぐっての争いの最中に父は死亡。ヘラクロナスを擁したマルティナが権力を掌握しようとしたが、中央軍長官であったウァレンティノスを中心とするコンスタンティノス3世派と、首都市民(サーカス党派)の力によって、フラビオス・ヘラクレイオスが11歳で共同皇帝となる。その際に祖父・父の名「ヘラクレイオス」を外して「コンスタンティノス」と名乗った。さらに[[元老院]]などの画策によってヘラクロナスらは廃位・追放され、641年末(あるいは[[642年]]はじめ)にコンスタンスが単独の皇帝となった。
[[File:Byzantiumby650AD.svg|thumb|300px|コンスタンス2世治下、650年頃の東ローマ帝国]]
当初は幼少のため元老院や
コンスタンス2世は自ら軍を率いて繰り返して遠征を行っている。最初の遠征は[[651年]]頃に[[アルメニア]]を目的地として行われた。しかしこの遠征は成果を挙げず、直後にアルメニアはイスラームの支配下に入った。また当時シリア総督であった[[ムアーウィヤ]]が[[649年]]にイスラーム艦隊を創設し、[[キプロス島]]を攻撃、翌[[650年]]にはシリアに残った最後の帝国領である[[アルワード島|アラドス島]]を制圧した。これ以降イスラーム艦隊の地中海進出が激化したため、[[655年]]にはコンスタンスは自ら艦隊を率いて小アジア南部・[[リュキア]]の沖でアラブ艦隊に決戦を挑んだが惨敗を喫して、命からがら逃亡した(リュキア沖海戦、マストの戦い)。だがその直後、[[656年]]以降はムアーウィヤと[[アリー・イブン・アビー=ターリブ|アリー]]との間で[[カリフ]]位をめぐる内戦が起き(第一次内戦)、ムアーウィヤとの和平が成立したため、イスラームとの戦争は海陸とも一時的に沈静化した。
|