「小笠原氏」の版間の差分

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|支流=[[安志藩]]([[子爵]])<br/> [[唐津藩]]([[子爵]])<br/> [[千束藩]]([[子爵]])<br/> [[勝山藩]]([[子爵]])<br> [[水上氏]]([[武家]])<br/>[[伴野氏]](武家)<br/>[[跡部氏]](武家)<br/>[[三好氏]](武家)<br/>[[赤沢氏]](武家)<br/>[[林氏#三河林氏|林氏]](武家)<br/>[[浅羽氏]](武家)<br/>[[大井氏#大井氏(小笠原支族)|大井氏]](武家)<br/>[[長坂氏]](武家)など
}}
'''小笠原氏'''(おがさわらし、おがさわらうじ)は、[[日本]]の[[氏族]]。[[清和源氏]]の[[河内源氏]]の流れをくみ、[[武家]]の[[有職故実]]を伝える一族としても知られる。[[通字]]は、「'''長'''」・「'''貞'''」・「'''忠'''」などである。家紋は[[菱紋|三階菱]]。
 
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阿波守護職となった[[小笠原長房]]{{要曖昧さ回避|date=2018年10月}}の子、[[小笠原長親|長親]]が[[弘安の役]]の軍功によって、石見国邑智郡村之郷を得て、移り住んだ事に始まる。長親は地元の有力国人である[[益田氏]]当主[[益田兼時|兼時]]の息女を室に迎え、弘安の役の後の不安定な石見国周辺の海岸を警護した。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]][[家長|当主]][[小笠原長胤]][[武家]]方に従って活動、[[川本温湯城]]を居城とした。戦国時代に入ると[[石見銀山]]の支配を巡って対立する[[大内氏]]と[[尼子氏]]に挟まれ、当主の[[小笠原長雄]]はその間を転々とし、最終的には大内氏の後を継いだ[[毛利氏]]に仕えた。
 
[[天正]]20年([[1592年]])に国替えにより[[出雲国]][[神門郡]]神西に移封されたことで石見国を去る。[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]後の毛利氏の防長移封の際には一度毛利氏を離れることとなるも後に帰参し、石見小笠原氏は[[長州藩|長州]][[藩士]]として[[明治]]を迎えた。
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小笠原氏には[[宗家]]の[[小笠原貞宗|貞宗]]の弟の[[小笠原貞長|貞長]]<ref>『[[寛政重修諸家譜]]』によれば弟、『[[尊卑分脈]]』では[[小笠原宗長|宗長]](貞宗の父)の嫡男とする。</ref>の流れがある。貞長は[[新田義貞]]と戦って討死し、子の[[小笠原長高 (南北朝時代)|長高]]は京都に住んで[[足利尊氏]]の弓馬の師範であったというが史実か疑わしい。以後、幕府に奉公衆として仕えた。京都に住んだ貞長の系統は、兄貞宗の系統を信濃小笠原氏とするのに対して、京都小笠原氏と呼ばれる。
 
京都小笠原氏の一族は将軍側近の有力[[武将]]として重きをなすとともに、幕府初期から[[的始め]]などの幕府儀礼に参加している。6代将軍の[[足利義教]]の頃には[[将軍家]]の「弓馬師範」としての地位を確立し、以後的始め、[[馬始め]]など幕府の公式儀礼をしばしば差配し、当時における[[武家]]の[[有職故実]]の中心的存在となった。こうしたことから奉公衆とはいえ一般の番衆とは区別され、[[書札礼]]では「小笠原殿のことは、弓馬師範たる間、如何にも賞翫にて恐惶謹言と書く事、可然也」(『[[大舘常興書札抄]]』)とされた。
 
なお従来は、[[将軍家]]の弓馬師範は信濃小笠原氏が務めたとされたり、貞宗が[[後醍醐天皇]]の師範、長高が[[足利尊氏]]の師範を務めたなどの説が流布していたが、これらは後世の付会に過ぎず史料的裏付けに乏しい。小笠原氏が将軍家弓馬師範なる地位を得るのは[[足利義教]]の代で、それも信濃小笠原氏ではなく京都小笠原氏である。信濃小笠原氏が武家故実に関わるのは[[小笠原長時]]、[[小笠原貞慶|貞慶]]父子の時代になってからである<ref>[[二木謙一]] 「室町幕府弓馬故実家小笠原氏の成立」『中世武家儀礼の研究』二木謙一、[[吉川弘文館]]、[[1985年]]。に詳しい。ただし、信濃小笠原氏も弓馬師範ではなかったものの、乗馬に通じていることが広く知られていたことを指摘する[[村石正行]]の論文もある(「足利義材政権と小笠原氏」「小笠原長時の外交活動と同名氏族間交流」(いずれも花岡康隆 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一八巻 信濃小笠原氏』、[[戒光祥出版]][[2016年]]。に所収)。</ref>。
 
なお、[[小笠原政清]]は同じ幕臣であった伊勢盛時([[北条早雲]])に娘を嫁がせたとされており、彼女の所生とされる[[北条氏綱]]以降の[[後北条氏]]歴代当主は京都小笠原氏の血を引いていた事になる。
 
京都小笠原氏の一族は、[[嫡流]]は幕臣として続いたが、[[小笠原稙盛]]が[[永禄]]8年([[1565年]])の[[永禄の変]]で将軍[[足利義輝]]とともに討死すると、稙盛の子の[[小笠原秀清|秀清]](少斎)は[[浪人]]し、後に細川氏(後の[[熊本藩|熊本藩主]]細川氏)に仕えた(稙盛は永禄の変後に[[足利義栄]]に従ったため、[[足利義昭]]の時代に所領を没収されたとする説もある<ref>木下昌規「永禄の政変後の足利義栄と将軍直臣団」(初出:天野忠幸 他編『論文集二 戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会、2012年/所収:木下『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年 ISBN 978-4-87294-875-2))</ref>)。秀清は関ヶ原の戦いの際に[[細川ガラシャ]]の[[介錯]]を務め[[殉死]]し、秀清の子孫は[[江戸時代]]には[[熊本藩]]の[[家老]]を務めた。また、庶流の[[小笠原元続]]は将軍[[足利義澄]]の死去後に幕府を離れ、縁戚の[[後北条氏]]を頼った。元続の子の[[小笠原康広|康広]]は[[北条氏康]]の娘婿となった。[[小田原征伐]]で[[後北条氏]]の[[嫡流]]が滅亡すると、康広の子の[[小笠原長房 (旗本)|長房]]は[[徳川家康]]の家臣となり、子孫は[[旗本]]として存続し、[[江戸時代]]の歴代の当主は[[縫殿寮|縫殿助]]を称した。
 
[[旗本]]となった小笠原長房の子孫は家禄780石余、縫殿助を称した当主が多いため縫殿助家とも呼ばれる。長房の曾孫の[[小笠原持広|持広]]は[[享保]]元年([[1716年]])に将軍[[徳川吉宗]]の命により家伝の書籍91部と[[源頼朝]]の鞢([[ゆがけ]])を台覧に供した。これは吉宗が[[射礼]]や[[犬追物]]など弓馬の古式の復興に熱心で諸家の記録を調べていたためで、「世に稀なる書ゆえ永く秘蔵すべき」旨の言葉があったという。後に吉宗は近侍の臣らを持広の弟子として射礼を学ばせている。持広は弓場始(的始め)の式に伺候するとともに、小的、草鹿、賭弓、円物、百手的などを上覧に入れるなどした。
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* [[大浦氏]]の家臣(大浦三老)に[[小笠原信浄]]なる人物がいる。信浄は小笠原氏の一族とする説もあるが、無関係とする説もある。
* [[出羽国|出羽]]の[[楢岡氏]]は小笠原氏の庶流で[[戸沢氏]]の家臣である。
* 傍流とされる[[林氏#三河林氏|林氏(三河林氏)]]は、[[徳川氏]]始祖とされる[[松平親氏]]の頃から三河の松平氏(徳川氏)に仕えていたとされ、江戸時代は幕府の大身旗本であったが、幕府後期の[[林忠英]]の代に将軍[[徳川家斉]]の寵臣として加増を重ね、貝淵藩([[請西藩]])1万石の大名となった。最後の藩主の[[林忠崇]]は[[戊辰戦争]]において各地の戦いに幕府方として参加したため、大名として最後の例となる[[改易]]処分となり、当初、'''一族である'''ことを理由に江戸の[[唐津藩]]邸(小笠原氏)にて幽閉された。このため林家は明治期に入っても旧大名家としての扱い、すなわち「[[華族]]」となれずにいたが、請西藩の旧家臣らの奔走により、明治26年にようやく家名復興となり華族・[[男爵]]となった。この家名復興運動の際、林家の旧臣らは'''一族である'''縁を頼りに元大名の小笠原氏の華族諸家に援助を依頼している。先ず明治2年に家名復興を嘆願した際は、[[小笠原長国]](忠知系・唐津藩)が願主となっている。ただしこの際は(林家が大名であった期間も短いことから)「[[士族]](東京士族)」としてしか認められていない。[[明治政府]]側は林家が[[華族]]となるための条件として「華族としての体裁を保てるだけの財産」すなわち当座の現金が必要だとしたため、旧家臣らは小笠原氏の元大名諸家に金策を嘆願したが、元はそれなりの大藩であったはずのどの家も「自分たちも金が無い」「自前で金策ができた後の嘆願書提出には協力する」としてこれに応じなかった。のち旧家臣らや旧領民らの援助により現金を用意することができたことにより、旧家臣らが政府に対する正式な嘆願を行う際は、小笠原一族として[[小笠原忠忱]]伯爵(本家・小倉藩)を名目上の主導者として、[[小笠原長育]]子爵(信嶺系・勝山藩)、[[小笠原貞孚]]子爵(忠脩系・安志藩)が名を連ね、華族制度を取り仕切る宮内大臣[[土方久元]]宛に嘆願書提出を行っている。
 
== 系譜 ==