「縄文人」の版間の差分

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また轟式に続いて登場した[[曽畑式土器]]も、[[奄美大島]]の[[高又遺跡]]、沖縄島の[[読谷村]][[渡具知東原遺跡]]、朝鮮半島の[[慶尚南道]]にある釜山市の[[東三洞貝塚]]などから発見されている<ref>橋口、前掲書、55-57ページ</ref>。縄文人が黒潮本流を越えた例としては、この曽畑式土器を持った集団による縄文前期の九州島・奄美大島間の航海が最も古く、関東における三宅島・八丈島間の航海よりおよそ800年早いものであるとされている<ref>橋口、前掲書、152-153ページ</ref>。東三洞貝塚では大量の縄文土器と九州産[[黒曜石]]が出土しており、縄文人がやってきた確かな証拠といえる。朝鮮半島では銛や鏃に最適な黒曜石が産出されない<ref>『日本人はるかな旅 (4)』NHK出版、p.93</ref> 。
 
建築家の[[長浜浩明]]は、[[大阪市立東洋陶磁美術館]]名誉館長の[[伊藤郁太郎]]の見解として、「1969年から1971年にかけて東三洞貝塚の下層から尖底・円底無文土器が発見された。これらの中には[[北松浦半島]]の[[泉福寺洞窟|泉福寺洞穴]]や[[福井洞穴]]などから発見された[[隆起線文土器]]と類似する土器、同じく北松浦半島の[[黒曜石]]と大形石斧も含まれていた。その他、[[慶尚南道]][[真岩里]]や[[咸鏡北道]][[西浦項]]貝塚などからも発見されている」と紹介し、縄文人は7000年前から無人の朝鮮半島へ渡り、半島北部まで進出していた、と述べている<ref>長浜浩明『韓国人は何処から来たか』[[展転社]] 2014、pp.28-32</ref>。また、朝鮮半島南部の[[煙台島]]貝塚から発見された古人骨(紀元前4000年)は縄文人の特徴と多くの点で一致しており<ref>小片丘彦「{{Cite journal|和書|title=朝鮮半島出土古人骨の時代的特徴」『|date=1998|author=小片 丘彦|journal=鹿児島大学歯学部紀要』 (|issue=18), |publisher=鹿児島大学|issn=0389-7834|naid=110004993640|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110004993640|pages=1-8, 19983|}}</ref>、韓国人とは似ても似つかぬ形態であり、最初に半島に住み始めた人々は日本からやって来た縄文人だったという考古学からの推論が、形態人類学によって裏付けられた<ref>長浜浩明『韓国人は何処から来たか』[[展転社]] 2014、pp.34-38</ref>。さらに長浜は、朝鮮半島の[[櫛文土器文化]]の土器は九州の[[曽畑式土器]](縄文前期)そのものであると述べている<ref>長浜浩明『日本の誕生』p.58</ref>。
 
=== 縄文人の用いた舟艇 ===