「ニコラ・ド・コンドルセ」の版間の差分
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しかし、[[フランス革命]]の混乱による中断等で社会数学の試みは未完成に終わり、20世紀初頭までその内容と射程が正確に見直されることは少なかったと言えるだろう。その一因には19世紀を通じて大きな影響をふるった[[実証主義]]の祖である[[オーギュスト・コント]]のコンドルセ評価が後世に与えた影響がある。「[[社会学]]」の創始者であるコントは、自らの「精神的父」としてコンドルセを挙げ、コンドルセの政治思想や歴史観を再解釈して評価した。''だが、社会現象の記述に数学を適用することを全く認めなかったのである''<ref>http://soki.free.fr/licence1.html</ref>。数学者からの低い評価も同様に影響した。唯一まとまった形で出版された1785年の「多数決の確率に対する解析の応用試論」が複雑な解析計算を展開する割にはごく一般的な結論しか導けていないことが批判の的となり、20世紀初頭、[[カール・ピアソン]]により再評価されるまで忘れ去られることになったのである。
今日定着しているコンドルセのイメージは革命期以降の社会的・政治活動に由来するものが多い。彼は人類愛と資本[[寡占]]への批判をも含む人道的汎人文主義者として[[1788年]]に「黒人友の会」出稿。[[1789年]]のフランス革命ではパリ・コミューン役員となり、[[1790年]]には[[エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス|アベ・シェイエス]]らと1789年協会を設立、[[ヴァレンヌ事件]]以降、[[共和主義者]]の論客となり、[[1791年]]9月立法議会にパリから選出され、公共教育委員会議長となっている。[[1792年]]9月国民公会議員となり、議長を経て、憲法委員会に入り[[1793年]]2月に{{仮リンク|ジロンド憲法草案|en|Girondin constitutional project}}を議会に上程。同年のパリコミューンの事件で[[ジロンド派]]は没落。6月14日[[
妻は[[アダム・スミス]]や[[トマス・ペイン]]の主要著書を最初に本格的にフランス語翻訳したことで知られる[[ソフィー・ド・グルシー]]。[[ナポレオン戦争]]で活躍した[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の腹心[[エマニュエル・ド・グルーシー]]元帥の2歳上の姉としても知られる<!--エマニュエル・ド・グルーシーのフランス語版英語版参照--->。聡明な彼女の存在は女性参政権などコンドルセの[[フェミニズム]]思想に少なからぬ影響を与えたと言われている<ref>[[:fr:Sophie_de_Condorcet]]</ref>。
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