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イシス=ウラニア・テンプル (Isis-Urania Temple) は当初、黄金の夜明け団の最初のテンプルであった。3人の創立者、ウィリアム・ロバート・ウッドマン、ウィリアム・ウィン・ウェストコット、サミュエル・リドル・マサースフリーメイソンであり、英国薔薇十字協会 (S.R.I.A.) の会員であった[1]。黄金の夜明け団が分裂してできた4つの団体のひとつとして存続した(他の3つは「アルファ・オメガ」、「暁の星」、アレイスター・クロウリーの「A∴A∴」である)。

歴史

1887年10月、ウェストコットはアンナ・シュプレンゲルに手紙を書いた。シュプレンゲルの名と住所をウェスコットは暗号文書の解読を通じて得たのであった。受け取った返信には多大な知識、そしてウェストコット、マサース、ウッドマンに「被免達人」という名誉位階を授与すること、かつまた、暗号文書に概略の記された5つの位階を執り行う「黄金の夜明け」のテンプル設立の認可について記されていたとされた[2][3]

1888年、ロンドンにてイシス=ウラニア・テンプルは設立された[2]。そこでは暗号文書から解読された儀式が創出され、実行された[4]。さらにそこでは、英国薔薇十字協会やメイソンリーとは対照的に、女性が男性と「完全に同等に」団に参加することを許容されるということが強調されていた[3]

1899年の終わり頃、イシス=ウラニアとアメン=ラー・テンプルの達人たちは、マサースのリーダーシップ、そしてかれのアレイスター・クロウリーとの交友の深まりに対して極度に不満を抱くようになった。かれらはまた、マサースを介さずに秘密の首領と接触することを切望していた[5]。イシス=ウラニア・テンプル内の人々の仲違いには、イシス=ウラニア内の秘密結社であるフロレンス・ファーの「スフィア」とその他の「小達人」位階の人々との争いもあった[5]

分離

イシス=ウラニア・テンプルが独立を宣言した後、さらなる争いがあり、結果としてウィリアム・バトラー・イェイツが退任することになった[6]。P・W・ブロック、M・W・ブラックデン、ジョン・ウィリアム・ブロディ=イネスの3人委員会が一時的に統率することになった。しばらくしてブロックは辞任し、ロバート・フェルキンが後任となった[7]。この間、かれらはアニー・ホーニマンと対立するようになり、結果としてホーニマンは永久に団を離脱した。1903年5月、ブロディ=イネスはかれが団の首領となることを盛り込んだ新たな団内規約を通そうと試みた。かれはアーサー・エドワード・ウェイト、マーカス・ブラックデン、ウィリアム・アレクサンダー・アイトンに率いられた残りの会員の大多数の反対を受けた。ウェイトのグループは、団は再編されなければならず、イシス=ウラニア・テンプルの指揮権を保持しながら神秘的方向に再集中すべきであり、積極的な魔術作業を追い求める人々は分離すべきであると提案した。これにより、フェルキンとブロディ=イネスの指導下にある少数派(イェイツ含む)は分離して「暁の星」を結成した[8]

黄金の夜明けの独立改定儀礼

ウェイト、ブラックデン、アイトンは今や、かれらの名づけるところの「黄金の夜明けの独立改定儀礼」またの名を「聖黄金の夜明け団」という結社の指導者であった。それは初めから明確に魔術作業を放棄した神秘主義の探求を志していた。しかしながらブラックデンとアイトンは実際にはウェイトに任せて積極的な役割を果たさなかった。この改革された団の支持者にはアーサー・マッケンアルジャノン・ブラックウッドパメラ・コールマン・スミス、イザベル・ド・スタイガーがいた。この団はまた、1905年にイーヴリン・アンダーヒルという新たな活動的団員も獲得した。アイトン没後、ウェバー大佐が後任となった[9]。ウェイトは第一次世界大戦に至るまでの間、イシス=ウラニア・テンプルの運営を継続し、当初は「暁の星」のアモン・テンプルとの多少なりとも平穏な関係を維持したが、「アルファ・オメガ」との接触は拒んだ。

フランシス・キングの記すように、新たなテンプルは「あらゆる魔術作業を放棄し、第2団内の試験を廃止し、やや煩雑なキリスト教神秘主義を表現するように重度に改訂された儀式を用いた」[9]。これらの改訂はウェイトによってなされ、1910年に実行に移された。それはキングの述べるところによると「仰々しく長ったらしい乱雑状態」であった[9]。ウェイトによる儀式改変は部分的に、暗号文書の起源についての1908年に始まるかれの研究の影響を受けていた。ウェイトは、暗号文書の不整合は、それが主張されているようには真の古代エジプトの伝統を反映してなどおらず、実際には19世紀後半のある時点で編纂されたものかもしれないということを表していると結論づけた。これは、ウェイトの発見を受容した人とそうでない人との間に新たな激しい論争を巻き起こした。この論争は、暗号文書はエジプトのファラオを通じて口承された真の古代の知識を表していると主張するマーカス・ブラックデンを隠遁から引きずり出した。この衝突の結果、ウェイトは1914年にテンプルを閉じ、多くの人を引き連れて、黄金の夜明け団やその分派とはまったく独立した新たな結社「薔薇十字同志会」を結成した[10]。R・A・ギルバートは団の終焉についてのウェイトの説明を実証しているが、キングは、団の終焉のほんとうの理由は多くの達人たちがウェイトの新しい儀式に強い嫌悪を抱いたためと推測している[11]

出典

  1. ^ Regardie, 1993, page 10
  2. ^ a b King, 1989, page 43
  3. ^ a b Regardie, 1993, page 11
  4. ^ King, 1997, page 35
  5. ^ a b King, 1989, page 66
  6. ^ King, 1989, page 78
  7. ^ King, 1989, page 94
  8. ^ Gilbert, Robert A.; p. 44
  9. ^ a b c King, 1989, page 96
  10. ^ Gilbert, Robert A.; p. 72-3
  11. ^ King, 1989, page 112

参考文献

  • King, Francis (1989). Modern Ritual Magic: The Rise of Western Occultism. ISBN 1-85327-032-6
  • Regardie, Israel (1993). What you should know about the Golden Dawn (6th edition). ISBN 1-56184-064-5
  • Gilbert, Robert A. The Golden Dawn: Twilight of the Magicians. The Aquarian Press, 1983. ISBN 0-85030-278-1