「イシス=ウラニア・テンプル」の版間の差分

A∴A∴は同列には扱えないので除去;ウェイトの派閥は少数派;その他、補足修正
(en:Isis-Urania Temple 01:55, 26 December 2018‎ UTC 翻訳)
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(A∴A∴は同列には扱えないので除去;ウェイトの派閥は少数派;その他、補足修正)
'''イシス=ウラニア・テンプル''' (Isis-Urania Temple) は当初、[[黄金の夜明け団]]の事実上の最初のテンプル(支部)<ref group="†">Temple は神殿の意であるが、ここでは日本語文献の通例に従てテンプルと記す。</ref>である。3人の創立者、ウィリアム・ロバート・ウッドマン、ウィリアム・ウィン・ウェストコット、[[マグレガー・メイザース|サミュエル・リドル・マサース]]は[[フリーメイソン]]であり、英国薔薇十字協会 (S.R.I.A.) の会員であった<ref>Regardie, 1993, page 10</ref>。黄金の夜明け団分裂してできた4後、その3つの団体分派のひとつとして1914年まで存続した(他の32つは「アルファ・オメガ」「暁の星」、アレイスター・クロウリーの「A∴A∴」である)。
 
==歴史==
1888年、ロンドンにてイシス=ウラニア・テンプルは設立された<ref name="ref"/>。そこでは暗号文書から解読された儀式が創出され、実行された<ref>King, 1997, page 35</ref>。さらにそこでは、英国薔薇十字協会やメイソンリーとは対照的に、女性が男性と「完全に同等に」団に参加することを許容されるということが強調されていた<ref name="regard"/>。
 
1899年の終わり頃、イシス=ウラニアとアメン=ラー・テンプルの達人たちは、マサースのリーダーシップ、そしてかれの[[アレイスター・クロウリー]]との交友の深まりに対して極度に不満を抱くようになった。かれらはまた、マサースを介さずに[[秘密の首領]]と接触することを切望していた<ref name="meatloaf">King, 1989, page 66</ref>。イシス=ウラニア・テンプル内の人々の仲違いには、イシス=ウラニア内の秘密結社グループであるフロレンス・ファー率いる「スフィア」とその他の「小達人」位階の人々との争いもあった<ref name="meatloaf"/>。
 
==分離==
イシス=ウラニア・テンプルが独立を宣言した後、さらなる争いがあり、結果として[[ウィリアム・バトラー・イェイツ]]が退任することになった<ref>King, 1989, page 78</ref>。P・W・ブロック、M・W・ブラックデン、ジョン・ウィリアム・ブロディ=イネスの3人委員会が一時的に統率することになった。しばらくしてブロックは辞任し、ロバート・フェルキンが後任となった<ref>King, 1989, page 94</ref>。この間、かれらはアニー・ホーニマンと対立するようになり、結果としてホーニマンは永久に団を離脱した。1903年5月、ブロディ=イネスはかれが団の首領となることを盛り込んだ新たな団内規約を通そうと試みた。かれは[[アーサー・エドワード・ウェイト]]、マーカス・ブラックデン、ウィリアム・アレクサンダー・アイトンに率いられた残りの会員の大多数たちの反対を受けた。ウェイトのグループは、団は再編されなければならず、イシス=ウラニア・テンプルの指揮権を保持しながら神秘的方向に再集中すべきであり、積極的な魔術作業を追い求める人々は分離すべきであると提案した。ウェイトのグループは少数派であったが、提出された新しい団内規約案を通すのに必要な3分の2の賛成を覆すのに成功した<ref>フランシス・キング『英国魔術結社の興亡』江口之隆訳、国書刊行会、1994年、114頁。</ref>。これにより、フェルキンとブロディ=イネスの指導下にある少数派人々(イェイツ含む)は分離して「暁の星」を結成した<ref>Gilbert, Robert A.; p. 44</ref>。
 
==黄金の夜明けの独立改定儀礼==
ウェイト、ブラックデン、アイトンは今や、かれらの名づけるところの「黄金の夜明けの独立改定儀礼」またの名を「聖黄金の夜明け団」という結社の指導者であった。それは初めから明確に魔術作業を放棄した神秘主義の探求を志していた。しかしながらブラックデンとアイトンは実際にはウェイトに任せて積極的な役割を果たさなかった。この改革された団の支持者には[[アーサー・マッケン]]、[[アルジャノン・ブラックウッド]]、[[パメラ・コールマン・スミス]]、イザベル・ド・スタイガーがいた。この団はまた、1905年にイーヴリン・アンダーヒルという新たな活動的団員も獲得した。アイトン没後、ウェバー大佐が後任となった<ref name="waite">King, 1989, page 96</ref>。ウェイトは第一次世界大戦に至るまでの間、イシス=ウラニア・テンプルの運営を継続し、当初は「暁の星」のアモン・テンプルとの多少なりとも平穏な関係を維持したが、「アルファ・オメガ」との接触は拒んだ。
 
魔術史家フランシス・キングの記すように、新たなテンプルは「あらゆる魔術作業を放棄し、第2団内の試験を廃止し、やや煩雑なキリスト教神秘主義を表現するように重度に改訂された儀式を用いた」<ref name="waite"/>。これらの改訂はウェイトによってなされ、1910年に実行に移された。それはキングの述べるところによると「仰々しく長ったらしい乱雑状態」であった<ref name="waite"/>。ウェイトによる儀式改変は部分的に、暗号文書の起源についての1908年に始まるかれの研究の影響を受けていた。ウェイトは、暗号文書には不整合があり、そのこと主張され表しているようにのは、暗号文書は真の古代エジプトの伝統など反映してどおらいかもしれず、実際には19世紀後半のある時点で編纂されたものかもしれないということを表していると結論づけた。これは、ウェイトの発見を受容した人とそうでない人との間に新たな激しい論争を巻き起こした。この論争は、暗号文書はエジプトのファラオを通じて口承された真の古代の知識を表していると主張するマーカス・ブラックデンを隠遁から引きずり出した。この衝突の結果、ウェイトは1914年にテンプルを閉じ、多くの人を引き連れて、黄金の夜明け団やその分派とはまったく独立した新たな結社「薔薇十字同志会」を結成した<ref>Gilbert, Robert A.; p. 72-3</ref>。黄金の夜明け団の研究者R・A・ギルバートは団の終焉についてのウェイトの説明を実証しているが、フランシス・キングの推測によれば、団の終焉のほんとうの理由は多くの達人たちがウェイトの新しい儀式に強い嫌悪拒否反応抱い示したためと推測しているでもあった<ref>King, 1989, page 112</ref>。
 
==註釈==
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==出典==