「明帝 (北周)」の版間の差分

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[[永熙 (北魏)|永熙]]3年([[534年]])、[[西魏]]の実力者[[宇文泰]]の庶長子として生まれる。母は側室の姚氏。宇文泰が[[夏州]]の[[統万城]]に留まった際に生まれたことから幼名は'''統万突'''とされた。
 
[[大統]]8年([[548年]])、寧都郡公に封ぜられた。[[556年]]に[[大将軍]]となり、[[隴西郡|隴西]]地方を守備、統治した。異母弟の宇文覚([[孝閔帝]])が皇帝に即位した際に[[柱国]]に任じられ、[[岐州]][[刺史]]として善政を行なった。従兄の晋公[[宇文護]]が孝閔帝を廃位した後、宇文毓を岐州に新皇帝として迎えようとしたが、宇文毓は故郷にとどまり帝位を固辞した。群臣たちの上表が行われ、皇帝の乗り物である[[法駕]]を用意して迎えようとしたが、宇文毓は更に固辞した。しかし群臣たちの重ねての要請を容れ、宇文毓は[[天王]]への即位を承諾、[[557年]]に[[大赦]]を行い、弟の大将軍輔城公[[武帝 (北周)|宇文邕]]を柱国とした国家体制を整えた。
 
[[558年]]、大冢宰の宇文護を[[太師]]とし、独孤氏を王后に立てる。[[559年]]には[[雍州]]刺史を雍州牧に、京兆太守を[[京兆尹]]に改称している。[[北魏]]が[[洛陽市|洛陽]]に[[遷都]]して以降は国人は河南人と、また北周は[[関中]]に都城を設けていることから、関中に居住する者を京兆人とする呼称を定め、中原王朝としての体裁を整えると共に、太師宇文護を雍州牧に任じ、統治体制の強化を図った。同年には[[エフタル]]と[[突厥]]の使者が来朝し、朝貢が行われている。
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太師の宇文護が政務について天王に奉還することを上表したので、内政に関しては親政が行われたが、軍事に関しては宇文護が継続して統括していた。
 
[[陳 (南朝)|陳]]軍が侵攻してきた際は自ら[[甲冑]]を着け、[[太白山]]の東方で迎え撃っている。続いて[[吐谷渾]]に侵攻されたが、これは[[大司馬]]博陵公[[賀蘭祥]]にこれを迎え撃たせた。
 
また[[周暦]]を作らせた。柱国輔城公宇文邕を大[[司空]]に任じた。西魏の時代の盗みや着服はその罪に問責しないことにしたが、追求する者がいて事実関係が明らかになった場合は、法に定めてあるようにそれ相応の補償をさせるように勅令を出した。賀蘭祥は[[チョネ県|洮陽]]・[[臨潭県|洪和]]の2城を攻め落としたので、吐谷渾は逃げ帰った。[[西域]]の[[高昌]]国が使者を来朝させて朝貢した。
 
激しい長雨があったので、[[公卿]]・[[卿]]・[[大夫]]・[[士]]のみならず、各地の[[刺史|牧]]・守・庶民にいたるまで、天子のみに直接挙げる上奏文、直言をするよう命じる勅令を出した。災害の様子を官吏を各地に派遣して掌握させた。そして、宇文泰が夏州に攻め込んで征服したときに戦死した遺族に金銭や絹を与えたように、この災害で妻子を失ったものには同じように金銭や絹を与える勅令を出した。この年、天王を改めて皇帝を称し、父の文王・宇文泰を文皇帝と追尊した。また、[[武成 (北周)|武成]]元年と改元した。
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武成2年([[560年]])、突厥の使者を再び群臣とともに迎えた。
 
宇文護は、明帝が賢明で識見がある優れた君主であるのを懼れて、食事係の李安に毒入り餅を勧めて毒殺しようとした。明帝はこれを悟ったがあえて食べ、死の直前に「生死は必然のことである。わたしは不徳であったが書物を読み、聖人・賢人たちの論議を開いてみることに努めてきたが、いまだによく解らないところもあった。群臣一同よく父である太祖宇文泰のころからよく仕えてくれたことを感謝している。わたしは、在位4年になったが、まだ天下を統一できないことが残念である。皆で協力し合って太祖の遺志を為し遂げてほしい。それからわたしの子供はまだ幼少で、国を治める任には堪えない。弟である魯国公の邕は、寛容で情け深く度量が大きい。わが周を大きくするのはこの子を措いてない、と太祖からお聞きしている。どうか邕を支えて天下人にして欲しい」と遺言し、27歳で崩御した。
:「生死は必然のことである。わたしは不徳であったが書物を読み、聖人、賢人たちの論議を開いてみることに努めてきたが、いまだによく解らないところもあった。群臣一同よく父である太祖宇文泰のころからよく仕えてくれたことを感謝している。わたしは、在位4年になったが、まだ天下を統一できないことが残念である。皆で協力し合って太祖の遺志を為し遂げてほしい。それからわたしの子供はまだ幼少で、国を治める任には堪えない。弟である魯国公の邕は、寛容で情け深く度量が大きい。わが周を大きくするのはこの子を措いてない、と太祖からお聞きしている。どうか邕を支えて天下人にして欲しい」
と遺言し、27歳で崩御した。
 
明帝は寛大な性格で情け深く、度量が大きかった。親族を大切にし、弟の宇文邕とは特に仲が良かった。幼い頃から学問を好み、多くの書物を読んでいた。文章をよくし、詩文を作らせても美しく優れていた。即位するに及んで、学者80人以上を集めて、書物に注をつけさせ、歴史書を刊行させたりした。多くの書物を集め、自身にも10巻の著作があった。
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=== 子 ===
*宇文賢(畢王。[[字]]は乾陽。荊州総管・大司空を経て雍州牧・[[太師]]に進んだ。[[楊堅]]を除こうとして殺害された)
*宇文貞({{lang|zh-tw|}}王。字は乾雅。大冢宰に進んだ。楊堅に殺害された)
*宇文宝(宋王)