「松田竹千代」の版間の差分

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|退任日4 = [[1972年]][[12月9日]]
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'''松田 竹千代'''(まつだ たけちよ、[[明治]]21年([[1888年]])[[2月2日]] - [[昭和]]55年([[1980年]])[[12月1日]])は、[[日本]]の男性[[政治家]]。[[衆議院議長]]、[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]、[[郵政大臣]]を歴任した。[[正三位]]勲一等。
 
== 来歴 ==
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昭和3年(1928年)に最初の[[普通選挙]]だった[[第16回衆議院議員総選挙]]で[[立憲民政党]]公認で立候補し初当選。民政党では[[町田忠治]]直系の政治家として知られ、一方で同じ民政党所属の[[三木武吉]]の知遇を得た。元来[[自由主義|自由主義的]]な政治家であり、昭和14年([[1939年]])には[[クリスチャン]]の[[賀川豊彦]]やのちに[[内閣総理大臣]]となる[[三木武夫]]らとともに'''日米同志会'''を結成し[[東京府]][[東京市]][[麹町区]](現・[[東京都]][[千代田区]])の[[日比谷公会堂]]で'''日米親善国民大会'''を開催したが<ref name="政党と派閥">『政党と派閥』31-32頁。</ref>、戦時中は軍部と妥協し昭和18年([[1943年]])[[6月17日]]の翼賛政治会の代議士会で[[鳩山一郎]]と[[中野正剛]]の演説に対し「それではまるで反戦演説じゃないか。やるなら鳩山先生の如くやれ」と鳩山は支持しながら、中野には反感をむき出しにして叫んだ。翼賛系に参加していたことから、戦後は[[公職追放]]を受ける。
 
追放解除後、三木と共に[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]に復帰、鳩山派の一員として活動。[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]結成後は[[春秋会|河野派 → 森清派 → 園田グループ]]に所属したが、その後[[政策科学研究所 (派閥)|中曽根派]]に入った。[[ハト派]]で[[野党]]との話し合いを重視する姿勢をとり、温厚そのものの外見だったが、思想や見た目とは裏腹に無類のきかん気で、妥協を拒む性格でもあった。また[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]時代は[[日本教職員組合|日教組]]の集会に出席するなど、自民党の立場にとらわれない姿勢をとった。立憲民政党より衆議院議員総選挙に出馬し、初当選を果たして以後、昭和47年(1972年)に政界を引退するまで、通算12回当選し、この間、郵政大臣、文部大臣、衆議院議長を歴任し、する。昭和55年(1980年)逝去。
 
== 略歴 ==
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== 親族 ==
* 妻 澄江 - 大森兵蔵の姪<ref name="日本人名大事典" />
* 次女 [[松田妙子 (実業家)|松田妙子]] - [[社会福祉]]事業家<ref name=seijika>『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』574頁。</ref>
* 孫娘 佐藤玖美(妙子の次女)- [[実業家]]<ref name=seijika/>
 
== 脚注・出典 ==