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'''宇文 智及'''(うぶん ちきゅう、? - [[619年]])は、中国の[[隋]]の人。[[北周]]の左翊衛将軍[[宇文述]]の子。[[宇文化及]]の弟、[[宇文士及]]の異母兄
 
== 経歴 ==
[[宇文化及]]の弟、[[宇文士及]]の異母兄。
==解説==
[[616年]]、宇文述の遺言で兄の化及が右屯衛将軍を務めた際、将作少監となった。
 
[[618年]]、兄の化及を首謀者に推して武賁郎将の[[司馬徳戡]]、武勇郎将の[[趙行枢]](智及と親交があった)、直長の[[薛世良]]、勲侍の[[楊士覧]](智及の外甥)らと謀って[[煬帝]]を弑殺した。煬帝の弟の秦王[[楊俊]]の子で、智及と親交のあった秦王[[楊浩]]を擁立した兄から左僕射に任じられ付き従って北上したが、[[王世充]][[李淵]][[李密 (隋)|李密]]らの勢力に阻まれた。化及が楊浩を毒殺し、魏県を根拠地として自ら[[''']]'''の[[皇帝|帝]]を号して百官を任じる時もその列に加わり、斉王に任じられた。
 
[[619年]]、宇文化及が[[竇建徳]]に[[東昌府区|聊城]]で敗れると、楊士覧[[許弘仁]][[孟景]][[元武達]]らと共に処刑され、軍門の外に梟首された。
 
== 伝記資料 ==
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* ''[[北史]]'' 巻72(列伝第62)
 
== 参考資料 ==
*『隋書』第六冊、中華書局(北京)、1973、pp1888-1892、ISBN 7-101-00316-8
 
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{{Cite wikisource|北史/卷072||zh}}
 
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[[Category:隋代の人物]]