「関ヶ原の戦い」の版間の差分

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一時は徳川側と前田側が武力衝突する寸前まで至ったが、誓書を交換するなどして騒動は一応の決着を見る。正徳3年(1713年)成立の「関ヶ原軍記大成」では、この騒動の際伏見の家康邸に[[織田有楽斎]](長益)・[[京極高次]]・[[伊達政宗]]・[[池田輝政|池田照政]]・[[福島正則]]・[[細川幽斎]]・[[細川忠興]]・[[黒田孝高|黒田如水]]・[[黒田長政]]・[[藤堂高虎]]・[[加藤清正]]・[[加藤嘉明]]ら30名近い諸大名が参集したとしている<ref>国史研究会編『関原軍記大成(一)』国史研究会1916年、p.60</ref>。
 
一方の大坂の前田利家の屋敷には、[[毛利輝元]]・[[上杉景勝]]・[[宇喜多秀家]]・[[細川忠興]]・[[加藤清正]]・[[加藤嘉明]]・[[浅野長政]]・[[浅野幸長]]・[[佐竹義宣]]・[[立花宗茂]]・[[小早川秀包]]・[[小西行長]]・[[長宗我部盛親]]・[[岩城]]・[[原]]・[[熊谷]]・[[垣見]]・[[福原]]・[[織田秀信]]・[[織田秀雄]]・[[石田三成]]・[[増田長盛]]・[[長束正家]]・[[前田玄以]]・[[鍋島直茂]]・[[有馬晴信]]・[[松浦鎮信]]らが集まったとされる<ref name="iwasawa">岩澤愿彦『前田利家』日本歴史学会編集、吉川弘文館、1988年</ref><ref name="kimura">木村高敦『武徳安民記』巻三、p67、宝永5年(1708年)</ref>{{efn|宝永5年(1708年)に成立したとされる木村高敦の『武徳安民記』などを史料として用いた岩澤愿彦は、この時の伏見の徳川家康邸に参集した大名を福島正則・池田輝政・森忠政・織田有楽・黒田如水・黒田長政・藤堂高虎・有馬則頼・金森長近・新庄直頼・新庄直忠・蜂須賀家政・山内一豊・有馬豊氏・京極高次・高知兄弟・脇坂安治・伊達政宗・大谷吉継・堀秀治・最上義光・田中吉政らであるとしている。そして、大坂の前田利家邸に参集した大名を毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・細川忠興・加藤清正・加藤嘉明・浅野幸長・佐竹義宣・立花宗茂・小早川秀包・小西行長・長宗我部盛親・岩城・原・熊谷・垣見・福原・織田秀信・織田秀雄・石田三成・増田長盛・浅野長政・長束正家・前田玄以・鍋島直茂・有馬晴信・松浦鎮信らであるとしている<ref name="iwasawa"/><ref name="kimura"/>。}}。
翌年の閏3月に[[前田利家]]が死去すると、五奉行の一人石田三成が加藤清正・福島正則・黒田長政・藤堂高虎・細川忠興・[[蜂須賀家政]]・[[浅野幸長]]{{Efn|この7名は史料によってメンバーに違いが存在するが、ここでは近年の研究において採用されている慶長3年閏3月5日付家康書状の宛所(宛名)の7名を記す。}}の七将に襲撃される。その動機は慶長の役末期に行われた蔚山の戦いの際、不適切な行動をしたとして長政らが戦後処罰されたのは、三成の縁者[[福原長尭]]が秀吉に歪曲して報告したためと主張する、彼等の不満にあったとされている{{sfn|笠谷 1998}}。ただし忠興と正則は[[蔚山]]の戦いに参加しておらず、清正と幸長への処罰は発給文書類からは確認されない。
 
翌年の閏3月に[[前田利家]]が死去すると、五奉行の一人石田三成が加藤清正・福島正則・黒田長政・藤堂高虎・細川忠興・[[蜂須賀家政]]・[[浅野幸長]]{{Efn|この7名は史料によってメンバーに違いが存在するが、ここでは近年の研究において採用されている慶長3年閏3月5日付家康書状の宛所(宛名)の7名を記す。}}の七将に襲撃される。三成は同行した佐竹義宣・宇喜多秀家の家老と共に、伏見城西丸の向かいの曲輪にある自身の屋敷に入った後、屋敷に立て籠もった<ref>笠谷和比古「豊臣七将の石田三成襲撃事件 : 歴史認識生成のメカニズムとその陥穽」日本研究 、国際日本文化研究センター紀要、第22集、p35-47、2000-10</ref>。
家康・毛利輝元・上杉景勝・秀吉正室北政所らによる仲裁の結果、三成は奉行職を解かれ居城の佐和山城に蟄居となる。宮本義己は最も中立的と見られている北政所が仲裁に関与したことにより、裁定の正統性が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価しているが<ref>{{Cite journal|和書|author=宮本義己|title=徳川家康の人情と決断―三成"隠匿"の顚末とその意義―|journal=大日光|issue=70号|year=2000}}</ref>、一方で清正らの襲撃行為自体は武力による政治問題の解決を禁じた置目への違反であった<ref>{{Cite journal|和書|author=跡部信|title=秀吉独裁の権力構造|journal=大阪城天守閣紀要|issue=37号|year=2009}}</ref>。[[水野伍貴]]は当時七将が家康の統制下にあり、その行動は家康に容認された範囲内に限られていたとする{{sfn|水野 2016|p=46}}。
翌年の閏3月に[[前田利家]]が死去すると、五奉行の一人石田三成が加藤清正・福島正則・黒田長政・藤堂高虎・細川忠興・[[蜂須賀家政]]・[[浅野幸長]]{{Efn|この7名は史料によってメンバーに違いが存在するが、ここでは近年の研究において採用されている慶長3年閏3月5日付家康書状の宛所(宛名)の7名記す。}}の七将に襲撃される。そした七将の動機は慶長の役末期に行われた蔚山の戦いの際、不適切な行動をしたとして長政らが戦後処罰されたのは、三成の縁者[[福原長尭]]が秀吉に歪曲して報告したためと主張する、彼等の不満にあったとされている{{sfn|笠谷 1998}}。ただし忠興と正則は[[蔚山]]の戦いに参加しておらず、清正と幸長への処罰は発給文書類からは確認されない。
 
家康・毛利輝元・上杉景勝・佐竹義宣・秀吉正室北政所らによる仲裁の結果、三成は奉行職を解かれ居城の佐和山城に蟄居となる。宮本義己は最も中立的と見られている北政所が仲裁に関与したことにより、裁定の正統性が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価しているが<ref>{{Cite journal|和書|author=宮本義己|title=徳川家康の人情と決断―三成"隠匿"の顚末とその意義―|journal=大日光|issue=70号|year=2000}}</ref>、一方で清正らの襲撃行為自体は武力による政治問題の解決を禁じた置目への違反であった<ref>{{Cite journal|和書|author=跡部信|title=秀吉独裁の権力構造|journal=大阪城天守閣紀要|issue=37号|year=2009}}</ref>。[[水野伍貴]]は当時七将が家康の統制下にあり、その行動は家康に容認された範囲内に限られていたとする{{sfn|水野 2016|p=46}}。
 
=== 加賀前田征伐と家康の権力強化 ===
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計画は前田利家の嫡男で[[加賀国|加賀]][[金沢城]]主である[[前田利長]]を首謀者として五奉行のひとり浅野長政、秀頼・[[淀殿]]側近の[[大野治長]]、および加賀野々市城主の[[土方雄久]]が、大坂城入城中の家康を襲撃し暗殺するというものであり、[[寛永]]年間成立の『慶長年中卜斎記』では計画を家康に密告したのは増田長盛とする。ただしこの事件に関する一次史料はわずかであり、計画の真相や騒動の経緯については不明な点が多い。
 
[[10月2日 (旧暦)|10月2日]]、暗殺計画に加担した諸将に対する処分が家康より発表され、長政は隠居を命じられ[[武蔵国]]府中に蟄居し、治長は[[下総国|下総]][[結城市|結城]]、雄久は[[常陸国|常陸]][[水戸市|水戸]]に流罪となった。翌3日には首謀者である利長を討伐すべく、「[[加賀征伐]]」の号令を大坂に在住する諸大名に発し、加賀[[小松城]]主である[[丹羽長重]]に先鋒を命じた。金沢に居た利長はこの加賀征伐の報に接し、迎撃か弁明の択一を迫られたが、結局重臣である[[横山長知]]を家康の下へ派遣して弁明に努めた。家康は潔白の証明として人質を要求、[[慶長]]5年(1600年)正月に利長の母で利家正室であった[[芳春院]]・前田家の重臣の前田長種・横山長和・太田雄宗・山崎長徳らの子を人質として江戸に派遣することで落着した<ref name="kodamasa">児玉幸多「参勤交代制度の意義」日本学士院紀要第52巻、第3号、1998年</ref>。また、この時、細川忠興は長男の忠隆の妻が利長の姉であったことから、利長の陰謀に組したという家康の嫌疑を受けたため、利長と同じく、同年の正月に三男忠利(15歳)を人質として江戸に送り、浅野長政も第三子の長重(15歳)を江戸に送っている<ref name="kodamasa"/>
 
この騒動のさなか、家康は北政所の居所であった大坂城西の丸に入り、その後も在城を続ける。秀吉の遺言<ref>豊臣秀吉遺言覚書(『大日本古文書 家わけ第2浅野家文書』東京大学史料編纂所1968年、p.135)</ref>では家康は伏見に在城することが定められており、大坂在城はこれに違反するものであった。