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高綽は十数歳で、[[晋陽]]の留守をつとめた。[[ペルシア]]の犬を愛玩したため、尉破胡がこのことを諫めたが、高綽は怒って数匹の犬を殺し、暴れ回ったので、尉破胡は驚いて逃げ、二度と諫めようとはしなかった。[[568年]]、[[司徒]]となった。冀州刺史に転じた。人を裸にするのを好み、うずくまらせて獣のようにさせ、犬をけしかけてその人を食わせた。定州に左遷され、井戸の水を汲んで池をつくり、楼閣の上から人を飛び降りさせた。しのび歩きを好み、狩猟遊びに明け暮れた。ある婦人が子どもを抱えて道にいたが、高綽に出会うと草むらに隠れたので、高綽はその子を飼っているペルシア犬に奪わせた。婦人が泣き叫んだので、高綽は怒り、犬をけしかけて食わせようとしたが、犬が食わないので、子どもの血を塗りつけて、婦人を食わせた。
[[後主 (北斉)|後主]]がこのことを聞くと、高綽に鎖をかけて行在に連行させた。やってくると、高綽を許した。後主が高綽に州にあって何が最も楽しかったかと問うと、高綽は「多くの蠍を取って蛆と混ぜてみるのが、楽しかった
死後400日あまりたっても遺体の顔色や毛髪は生きているかのようだったと伝えられ、俗に5月5日に生まれた者の脳は壊れないと言われた。北斉が滅ぶと、高綽の妃の鄭氏が[[北周]]の[[武帝 (北周)|武帝]]の寵愛を受け、高綽の改葬を願い出た。このため永平陵の北に葬られた。
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