「銚子灘傳右エ門」の版間の差分

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'''銚子灘傳右エ門'''(ちょうしなだでんえもん、[[1902年]][[3月12日]]-[[1935年]][[1月5日]]<ref>http://www.fsinet.or.jp/~sumo/profile/1/19310104.htm</ref>)は、[[中立部屋]]、[[二子山部屋]]、[[出羽海部屋]]に所属した[[力士]]。引退後は8代[[稲川 (相撲)|稲川]]を襲名した。本名は網中仙太郎。[[千葉県]][[銚子市]]出身。171cm、116kg。最高位は西[[前頭]]14枚目。
== 来歴 ==
:1922年1月中立部屋より初土俵、1928年1月十両昇進。その後親方の死去により一時期二子山部屋に所属し、その後出羽海部屋に移り1931年1月に新入幕をはたす。1932年、[[春秋園事件]]に加担し脱退。1933年1月十両格別席で復帰し、1934年5月引退、年寄稲川を襲名したが、翌1935年1月場所の番付発表直前に死去し、1935年1月番付に名前だけ残すことになってしまった。
短気で喧嘩っ早い力士としても知られ、[[玉錦三右衛門]]、[[真鶴秀五郎]]、[[宝川政治]]、[[新海幸蔵]]と共に「喧嘩五人衆」の一人として数えられた。
 
== 成績 ==