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== 火山活動 ==
; ===古期火山群===
: 伊豆大島ができる前には'''岡田火山'''、'''行者窟火山'''、'''[[筆島]]火山'''があり北海岸から東海岸にかけて露出している。岡田火山は岡田港の西から乳ヶ崎にかけての海食岸に断続的に露出し主に[[玄武岩]][[溶岩流]]と[[火砕岩]]の成層構造とそれに貫入する[[岩脈]]からなる。行者窟(ぎょうじゃのいわや)火山は東部海食岸に露出する2・3枚の安山岩[[溶岩]]からなる。筆島火山は行者窟火山の南の海食岸に露出し、玄武岩溶岩流と火砕岩の互層とそれに貫入する多数の岩脈からなる。筆島は筆島火山の主[[火道]]内の強固な火道角[[礫岩]]が海食に耐えて残ったもの。これらの火山群は[[鮮新世]]末〜[[更新世]]に活動したと考えられているが、詳しい活動年代はわかっていない。
; ===伊豆大島火山===
: 現在活動している伊豆大島火山は、古期火山群を覆って4〜5万年前に活動を開始したと考えられている。その時の堆積物は岡田から泉津にかけての海食崖に露出している凝灰角礫岩を主とする地層で玄武岩溶岩流を伴う。浅い海底での[[マグマ]][[水蒸気爆発]]による堆積物と考えられている。
: 成長を続けた伊豆大島火山は、およそ2万年前頃に現在とほぼ同じような陸上の火山活動に移行し、主に玄武岩質の[[火山砕屑物|火砕物]]、溶岩流の互層からなる成層火山体を形成した。島内南西部都道沿いの地層大切断面に見られる火砕物層は、約2万年間に堆積した主に降下[[スコリア]]、[[火山灰]]からなる地層で、2万年前から現在まで100回以上の噴火活動が認められる。多くの側噴火も発生した。歌にも歌われた[[波浮港]]も9世紀に形成された側火山の一つである。側噴火はほぼ全て北北西-南南東方向の割れ目[[火口]]から噴出しており、伊豆大島が北北西-南南東方向に延びた形をしているのもそのためである。
: 約1700年前に噴火(S2.0噴火)に引き続いて山頂部で発生した大規模なマグマ水蒸気爆発により、現在山頂部に見られるカルデラ地形が作られたと考えられている。この時には低温の火[[砕流]](火砕物密度流)が発生し、ほぼ全島を覆った。その後、少なくとも10回の大規模噴火(噴出量数億トン以上)が発生しており、西暦[[860年]]前後のN1.0噴火、1421年の[[応永]](Y4.0)噴火、1552年の[[天文 (元号)|天文]](Y3.0)噴火、[[1684年|1684]]-[[1690年|90年]]の[[天和 (日本)|天和]](Y2.0)噴火、[[1777年|1777]]-[[1792年|92年]]の[[安永 (元号)|安永]](Y1.0)噴火はマグマ噴出量が0.1 DRE km{{sup|3}}を超える大規模な噴火であったと推定されている。<ref>{{PDFlink|[http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/souran/main/58_Izu-Oshima.pdf 58. 伊豆大島] [[気象庁]], 2016-03-09閲覧。}}</ref>最近2万年間の平均マグマ噴出量は約1.6 DRE km{{sup|3}}/千年となっている。<ref>{{PDFlink|[https://www.gsj.jp/data/openfile/no0613/42Izuoshima.pdf 17)伊豆大島火山 ] [[産業技術総合研究所]], 2016-03-09閲覧。}}</ref>
; ===[[安永]]の噴火===
: 歴史噴火記録が十分残されている大規模噴火として、1777-78年の「安永の噴火」がある。1777年8月末にカルデラ内の山頂火口から噴火が始まり、火山毛、スコリアの降下があった。山頂噴火活動は比較的穏やかだったが、翌1778年2月末頃まで続いた。同年4月19日から激しい噴火が始まり、降下スコリアが厚く堆積し、溶岩の流出が起こった。この時の溶岩流は北東方向に細く流れ、泉津地区の波治加麻神社付近まで流れ下った。5月末頃には噴火は沈静化した。10月中旬頃から再び噴火が激しくなり、11月に再び溶岩の流出が起こった。この時の溶岩流は三原山南西方向にカルデラを超えて流れ下ったほか、やや遅れて北東方向にも流れ、現在の大島公園付近で海に達した。溶岩の流出などは年内には収まったが、1783年から大量の火山灰を噴出する活動が始まり、1792年まで噴火が続いた。この時に降り積もった火山灰の厚さは中腹で1m以上に達し、人家、家畜、農作物に大打撃を与えた。
; ===明治以降の中規模噴火===
: [[明治]]以降の噴出量が数千万トンの中規模噴火として、1876-77年噴火、1912-14年噴火、1950-51年噴火がある。いずれも三原山山頂火口から比較的穏やかな溶岩噴泉、[[ストロンボリ式噴火]]、溶岩流流出を起こす噴火だった。1876-77年噴火はナウマンによる噴火記載が行われるなど、明治以降の噴火は科学的な噴火観測記録が残されるようになった。これらの中規模噴火に引き続き、十数年にわたって小規模だがやや爆発的な噴火活動が続く傾向があり、1957年には火口近くの観光客が噴火に巻き込まれ1名死亡、53名が重軽傷を負っている。
; ===1986-87年の噴火===
[[File:三原山火口-Mt.Mihara Volcano - panoramio.jpg|thumb|三原山の竪坑状火孔。]]
:1974年の噴火を最後に静穏な状態が続き、三原山火口内には直径約300mの竪坑状火孔があった。1980年頃から[[地磁気]]の減少などの変化が認められるようになった。1986年に入ると小規模な地震の群発が島周辺で発生するようになり、7月頃には地磁気の急減少、比抵抗値の減少、[[火山性地震#火山性微動|火山性微動]]の発生など、噴火兆候と考えられる現象が顕著に観測されるようになった。その一方でカルデラ内の水準測量では膨張ではなく沈降が観測されており、噴火は切迫していないとも考えられていた。11月12日になると三原山火口壁から噴気が始まり、15日17時25分に噴火(1986A火口)が開始したことが確認された。19日には三原山山腹を溶岩が流れ下り、カルデラ床に達した。20日には三原山火口からの溶岩の噴出はほぼ終わり、噴火は爆発的になって、衝撃波による光環現象が頻繁に観察された。21日14時頃からカルデラ北部で地震活動が活発化し、多数の開口割れ目が発見された。16時15分にカルデラ床北部から割れ目噴火(1986B火口)が始まった。溶岩噴泉の高さは1000m以上に達し、噴煙高度は1万mを超え、島内東部にスコリアが大量に降下した。また溶岩流がカルデラ内に流出した。続いて三原山山頂の1986A火口も噴火を再開した。17時46分にはカルデラ内噴火割れ目北西延長のカルデラ外山腹(1986C火口)で噴火が始まり、溶岩流が元町に向けて流下し始めた。島内北部、西部の住民は島内南部の波浮地区に避難を開始したが、地震活動が南東部に移動するとともに、波浮地区周辺で開口割れ目が発見されたため、再び元町に戻るなど混乱が起きた。最終的に住民全員の島外避難が行われ、帰島は約1ヶ月後になった。割れ目噴火は21時頃に沈静化し始め、翌22日朝にはほぼ終了した。23日には1986A火口での噴火も終了した。12月18日にも小規模な噴火が1986A火口で起きた。