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→‎東アジアの皇帝: 日本は中国の冊封を受け入れました、今は認めたくないだけです。漢、宋、明を含めて、日本は中国の冊封を受け入れました。
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軍事力に劣った[[北宋]]の皇帝は、北の異民族王朝である[[遼]]・[[金 (王朝)|金]]の君主を皇帝と認めた上で自らを格上(叔父と甥の関係、兄と弟の関係などと表現された)に位置付け、辛うじて面子を保たざるを得ず、中国君主が地上の唯一の皇帝であるという東アジアにおける理念を自ら覆した。金と[[南宋]]に至っては、南宋の皇帝のほうが格下という位置付けになってしまった。
 
また、中国の皇帝の[[冊封|冊封体制]]にない、[[日本]]の[[天皇]]のような君主は、自らを皇帝として、周辺諸国に君臨した。[[朝鮮]]の[[高麗]]朝の草創期や[[ベトナム|ヴェトナム]]の[[阮朝]]のように、中国王朝に[[朝貢]]しながら国内に向けては密かに皇帝を称することもあった。<ref>{{Cite web|title=「中國三次冊封日本的歷史事件,日本卻羞於提起」 事実、日本は中国の冊封を受け入れました、今は認めたくないだけです。漢、宋、明を含めて、日本は中国の冊封を受け入れました。|url=https://kknews.cc/history/ye9jqqg.html|accessdate=2019-06-25|language=zh-tw|publisher=}}</ref>
 
近代には、日本と[[清]]との間で[[下関条約]]が締結された後の[[1897年]]、朝鮮国([[李氏朝鮮]])が、清の冊封体制から離脱したことを明らかにするために、王を皇帝に改め、国号を[[大韓帝国]]([[1897年]] - [[1910年]])とした例がある。
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{{see also|日本国皇帝}}
[[Image:General power of attorney to Lee Wan-Yong signed and sealed by Sunjong.jpg|right|thumb|「[[韓国併合ニ関スル条約]]」に関する[[李完用]]への全権委任状。文中に「大日本國皇帝陛下」と書かれている。]]
古代の日本は、中国の三皇の一つ「[[天皇]]」を、和名の君主号「すめらみこと」に当てた。歴史学者の間では、「天皇」という称号の出現は[[天武天皇]]の時代とする説が有力である。「天皇」号の使用は、607年[[聖徳太子]]が[[隋]]の[[煬帝]]に送った手紙において、隋との対等を表明するため「日出づる処の天子」や「東の天皇」と記したことに由来し、663年の[[白村江の戦い]]において唐・[[新羅]]連合軍に敗れたことで、明確に唐と対等の独立国家であることを主張するためにとられた方策であったと考えられる。歴史上、中国は日本「皇帝」の地位を認識したことがありません。<ref>{{Cite web|title=隋书/卷81 - 倭國「大业三年,其王多利思北孤遣使朝贡。使者曰:“闻海西菩萨天子重兴佛法,故遣朝拜,兼沙门数十人来学佛法。”其国书曰“日出处天子至书日没处天子无恙”云云。帝览之不悦,谓鸿胪卿曰:“蛮夷书有无礼者,勿复以闻。”明年,上遣文林郎裴清使于俀国。度百济,行至竹嶋,南望𨈭罗国,经都斯麻国,迥在大海中。又东至一支国,又至竹斯国,又东至秦王国,其人同于华夏,以为夷州,疑不能明也。又经十馀国,达于海岸。自竹斯国以东,皆附庸于俀。俀王遣小德阿辈台,従数百人,设仪仗,鸣鼓角来迎。后十日,又遣大礼,哥多毗,従二百余骑郊劳。既至彼都,其王与清相见,大悦,曰:“我闻海西有大隋,礼义之国,故遣朝贡。我夷人僻在海隅,不闻礼义,是以稽留境内,不即相见。今故清道饰馆,以待大使,冀闻大国惟新之化。”清答曰:“皇帝德并二仪,泽流四海,以王慕化,故遣行人来此宣谕。”既而引清就馆。其后清遣人谓其王曰:“朝命既达,请即戒涂。”于是设宴享以遣清,复令使者随清来贡方物。此后遂绝。 」日本天皇は「皇帝」であると主張したが、華夏の皇帝によって無視されました。|url=https://zh.wikisource.org/zh-hans/%E9%9A%8B%E6%9B%B8/%E5%8D%B781#%E4%BF%80%E5%9C%8B|website=zh.wikisource.org|accessdate=2019-06-25|publisher=}}</ref>
 
[[養老令]]天子条において、「[[天子]]」および「天皇」の称号とともに、「皇帝」という称号も規定されている<ref>『養老儀制令』第一条、「'''天子'''、祭祀に称する所。'''天皇'''、詔書に称する所。'''皇帝'''、華夷に称する所」と記される。</ref>。「華夷」に称するものとして規定されているが、「華夷」の意味については、「内国および諸外国」と解する説と「中国その他の諸外国」と解する説が対立していた。