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'''伊豆大島'''(いずおおしま)は、[[日本]]の[[伊豆諸島]]北部に位置する伊豆諸島最大の[[島]]。[[本州]]で最も近い[[伊豆半島]]からは南東方約25kmに位置する。大島と名のつく島は日本各地にあるが、[[国土地理院]]では伊豆大島と表記する。面積は91.06[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]。行政区域は、[[東京都]]'''[[大島町]]'''である。
 
 
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側火山は確認できるものだけで80個以上存在<ref name="gsj2"/>し、北北西-南南東方向に多く分布するため<ref name="gsj2"/>、島はこの方向に伸びた形をしている<ref name="gsj2">[https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/izuoshima/text/exp10-2.html 伊豆大島火山地質図: 伊豆大島火山の地質] - 産業技術総合研究所 地質総合センター、2018年12月閲覧</ref>。
 
比較的に活動的な[[火山]]であるため、数多くの[[噴火]]記録が残っているが、20世紀以降は1912年-1914年、1950年-1951年、1986年に中規模以上の噴火があった。
 
特に1986年の噴火では、高度16,000mもの[[プリニー式噴火|噴煙柱]]を伴う割れ目噴火や、[[溶岩流]]が人口集中地区に迫るなどして全島民が避難した<ref>[https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/izuoshima/text/exp10-5.html 伊豆大島火山地質図: 19世紀以降の活動] - 産業技術総合研究所 地質総合センター、2018年12月閲覧</ref>。この3期間以外にもしばしば小規模な噴火を起こしており、1957年の噴火では死者が1名出ている。
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===古期火山群===
: 伊豆大島ができる前には'''岡田火山'''、'''行者窟火山'''、'''[[筆島]]火山'''があり北海岸から東海岸にかけて露出している。岡田火山は岡田港の西から乳ヶ崎にかけての海食岸に断続的に露出し主に[[玄武岩]][[溶岩流]]と[[火砕岩]]の成層構造とそれに貫入する[[岩脈]]からなる。行者窟(ぎょうじゃのいわや)火山は東部海食岸に露出する2・3枚の安山岩[[溶岩]]からなる。筆島火山は行者窟火山の南の海食岸に露出し、玄武岩溶岩流と火砕岩の互層とそれに貫入する多数の岩脈からなる。筆島は筆島火山の主[[火道]]内の強固な火道角[[礫岩]]が海食に耐えて残ったもの。これらの火山群は[[鮮新世]]末〜[[更新世]]に活動したと考えられているが、詳しい活動年代はわかっていない。
 
===伊豆大島火山===
: 現在活動している伊豆大島火山は、古期火山群を覆って4〜5万年前に活動を開始したと考えられている。その時の堆積物は岡田から泉津にかけての海食崖に露出している凝灰角礫岩を主とする地層で玄武岩溶岩流を伴う。浅い海底での[[マグマ]][[水蒸気爆発]]による堆積物と考えられている。
: 成長を続けた伊豆大島火山は、およそ2万年前頃に現在とほぼ同じような陸上の火山活動に移行し、主に玄武岩質の[[火山砕屑物|火砕物]]、溶岩流の互層からなる成層火山体を形成した。島内南西部都道沿いの地層大切断面に見られる火砕物層は、約2万年間に堆積した主に降下[[スコリア]]、[[火山灰]]からなる地層で、2万年前から現在まで100回以上の噴火活動が認められる。多くの側噴火も発生した。歌にも歌われた[[波浮港]]も9世紀に形成された側火山の一つである。側噴火はほぼ全て北北西-南南東方向の割れ目[[火口]]から噴出しており、伊豆大島が北北西-南南東方向に延びた形をしているのもそのためである。
: 約1700年前に噴火(S2.0噴火)に引き続いて山頂部で発生した大規模なマグマ水蒸気爆発により、現在山頂部に見られるカルデラ地形が作られたと考えられている。この時には低温の火[[砕流]](火砕物密度流)が発生し、ほぼ全島を覆った。その後、少なくとも10回の大規模噴火(噴出量数億トン以上)が発生しており、西暦[[860年]]前後のN1.0噴火、1421年の[[応永]](Y4.0)噴火、1552年の[[天文 (元号)|天文]](Y3.0)噴火、[[1684年|1684]]-[[1690年|90年]]の[[天和 (日本)|天和]](Y2.0)噴火、[[1777年|1777]]-[[1792年|92年]]の[[安永 (元号)|安永]](Y1.0)噴火はマグマ噴出量が0.1 DRE km{{sup|3}}を超える大規模な噴火であったと推定されている。<ref>{{PDFlink|[http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/souran/main/58_Izu-Oshima.pdf 58. 伊豆大島] [[気象庁]], 2016-03-09閲覧。}}</ref>最近2万年間の平均マグマ噴出量は約1.6 DRE km{{sup|3}}/千年となっている<ref>{{PDFlink|[https://www.gsj.jp/data/openfile/no0613/42Izuoshima.pdf 17)伊豆大島火山 ] [[産業技術総合研究所]], 2016-03-09閲覧。}}</ref>
 
===[[安永]]の噴火===
: 歴史噴火記録が十分残されている大規模噴火として、1777-78年の「安永の噴火」がある。1777年8月末にカルデラ内の山頂火口から噴火が始まり、火山毛、スコリアの降下があった。山頂噴火活動は比較的穏やかだったが、翌1778年2月末頃まで続いた。同年4月19日から激しい噴火が始まり、降下スコリアが厚く堆積し、溶岩の流出が起こった。この時の溶岩流は北東方向に細く流れ、泉津地区の波治加麻神社付近まで流れ下った。5月末頃には噴火は沈静化した。10月中旬頃から再び噴火が激しくなり、11月に再び溶岩の流出が起こった。この時の溶岩流は三原山南西方向にカルデラを超えて流れ下ったほか、やや遅れて北東方向にも流れ、現在の大島公園付近で海に達した。溶岩の流出などは年内には収まったが、1783年から大量の火山灰を噴出する活動が始まり、1792年まで噴火が続いた。この時に降り積もった火山灰の厚さは中腹で1m以上に達し、人家、家畜、農作物に大打撃を与えた。
 
===明治以降の中規模噴火===
: [[明治]]以降の噴出量が数千万トンの中規模噴火として、1876-77年噴火、1912-14年噴火、1950-51年噴火がある。いずれも三原山山頂火口から比較的穏やかな溶岩噴泉、[[ストロンボリ式噴火]]、溶岩流流出を起こす噴火だった。1876-77年噴火はナウマンによる噴火記載が行われるなど、明治以降の噴火は科学的な噴火観測記録が残されるようになった。これらの中規模噴火に引き続き、十数年にわたって小規模だがやや爆発的な噴火活動が続く傾向があり、1957年には火口近くの観光客が噴火に巻き込まれ1名死亡、53名が重軽傷を負っている。
 
===1986-87年の噴火===
[[File:三原山火口-Mt.Mihara Volcano - panoramio.jpg|thumb|三原山の竪坑状火孔。]]
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『[[日本書紀]]』の[[飛鳥時代]]の記述に、[[推古天皇]]28年([[620年]])八月条に掖玖(やく、現・[[屋久島]])の人が「伊豆島」に漂着したとある。この伊豆島は伊豆諸島のことを指していると考えられる。書紀の記録ではほかにも、[[天武天皇]]4年[[4月18日_(旧暦)|4月18日]]条([[675年]]5月20日)には[[麻績王]]の子が、同6年[[4月11日_(旧暦)|4月11日]]条(677年5月20日)には田史名倉などが伊豆島に[[流罪|流刑]]に処されている。
 
このように伊豆島は古くから流刑地とされ、『[[続日本紀]]』によれば[[神亀]]元年([[724(724]])には[[伊豆国]]が[[安房国]]、[[常陸国]]、[[佐渡国]]などとともに遠流の地に定められた。『続日本紀』には[[文武天皇]]3年[[5月24日_(旧暦)|5月24日]](699年6月29日)には[[役小角]]が「伊豆嶋」に流された記録があるが、『[[扶桑略記]]』での対応記述は「仍配伊豆大島」とされており、この配流地は伊豆大島だったと考えられる。
 
『[[殿暦]]』[[永久 (日本)|永久]]元年10月22日条(1113年12月9日)の記事によれば、同年に[[醍醐寺]]の[[仁寛]]([[立川流 (密教)|立川流]]の祖)が罪を得て「伊豆大島」に流されたという([[永久の変]])。
 
[[琉球王国]]の[[正史]]『[[中山世鑑]]』や『[[おもろさうし]]』、『[[鎮西琉球記]]』、『[[椿説弓張月]]』などでは、[[源為朝]]は[[保元の乱]]に敗れて捕らえられ、伊豆大島に配流された後に島々を掠領したために[[工藤茂光]]に攻められたが、伊豆諸島の人々の助けで現在の[[沖縄県]]の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖[[舜天]]になったとされる。真偽は不明だが、正史として扱われており、この話が後に[[曲亭馬琴]]の『[[椿説弓張月]]』を産んだ。この話に基づき、[[大正]]11年には沖縄県に為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した[[東郷平八郎]]の名が刻まれている<ref group="注釈">なお、『中山世鑑』を編纂した[[羽地朝秀]]は、[[摂政]]就任後の[[1673年]]3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、源為朝が王家の祖先だというだけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている。(真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為<sub>レ</sub>渡儀疑無<sub>二</sub>御座<sub>一</sub>候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖<sub>レ</sub>然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為<sub>レ</sub>絶故也」)なお、最近の[[遺伝子]]の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。[[高宮広士]][[札幌大学]]教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは[[縄文時代]]中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘(『[[朝日新聞]]』2010年4月16日)するように、近年の[[考古学]]などの研究も含めて[[南西諸島]]の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。</ref>。
 
=== 中世 ===
伊豆諸島は[[伊豆国]]に属しており、[[中世]]に入ると伊豆大島も伊豆国の[[知行国主]]の支配を受けた。[[鎌倉幕府]][[執権]]の[[北条氏]]は伊豆[[守護職]]を[[世襲]]していたが、北条氏の滅亡に伴い終結した。『[[太平記]]』には[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]初期の争乱で[[陸奥国|奥州]]へ向かった兵船が嵐のため伊豆大島に漂着したという記述があるが、史実か定かではない。
 
[[応永]]3年[[7月23日_(旧暦)|7月23日]](1396年9月3日)には伊豆守護・[[上杉憲定]]に伊豆大島などの[[伊豆諸島]]を含む伊豆国の所領が交付されたという記録がある。この所領は前年七月二四日に父・[[上杉憲方]]の遺領として安堵されたものだった。また、『八丈島年代記』によると金川(現・[[神奈川県]][[横浜市]][[神奈川区]])の領主・奥山宗林が[[八丈島]]、[[八丈小島|小島]]、[[青ヶ島]]、[[三宅島]]、[[御蔵島]]の[[代官]]となったとされるが、記述のない伊豆大島は別の代官が任命されていたか不明である。この後、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]になると[[後北条氏]]が伊豆諸島全体を支配するようになった。なお、[[天文 (元号)|天文]]21年9月19日(1552年10月17日)の噴火の際に鎮静を願った祈祷札が今も元町の薬師堂にある。
 
=== 近世 ===
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=== 近代以降 ===
[[明治]]になると、1882年(明治15年)に秋広平六が西洋[[帆船]]を建造し、本土との往来などに使われた。1897年(明治30年)には相陽汽船が伊東(現・[[静岡県]][[伊東市]])との間で航路を開き、翌年には同航路で実業家・杉本が[[和船]]の運航を始めた。1900年(明治33年)に[[逓信省]]は杉本と契約し、[[郵便]]輸送を開始した。なお、当時の鮮魚や畜産品などの貨物輸送は島民の船で島内の[[元町港]]や波浮港から[[東京市]]・[[横浜市]]へ直接向かった。
 
[[File:Izu Oshima in 1930s.jpg|thumb|伊豆大島(1933年7月)]]
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横浜開港に伴う食肉需要の増加で島の[[放牧]][[ウマ|馬]]、[[ウシ|牛]]、[[山羊]]が乱獲されて一時はほぼ絶滅したが、その後は[[肉牛]]の生産が活発になった。さらに明治30年代に[[乳牛]]・[[酪農]]が主流となり、1926年(昭和元年)の島内の飼育乳牛頭数は1,200頭にのぼっている。また、江戸時代末期に生産を解禁された[[炭]]は、従来の主要な商品だった[[薪]]とともに島の有力産業に成長した。この他、島内では古くから灯・整髪・食用に用いられた[[椿油]]は明治以降に[[機械油]]や整髪油として生産が増加した。1916年([[大正]]5年)の島の産品は一位から順に海産物、牛酪、薪、炭、椿油となっている。
 
[[インフラストラクチャー]]面では1872年(明治5年)に野増で初の[[小学校]]が開校し、1875年(明治8年)に新島村と波浮で[[郵便局]]が開局した。1902年(明治35年)には下田(現・静岡県[[下田市]])と大島の間に[[海底]][[電線]]が開通している。1916年(大正5年)には元村と野増村で伊豆諸島で初の[[電灯]]が設けられ、1927年(昭和2年)には岡田、泉津、波浮港、差木地で送電が始まった。また、1931年(昭和6年)には島内で、1934年(昭和9年)には本土との間で[[電話]]が開通した。1933年(昭和8年)に大島六か村[[自動車専用道路|自動車道路]]が造られると、1935年(昭和10年)には島内で[[バス (交通機関)|バス]]、[[貨物自動車|トラック]]が運行されるようになった。なお、1940年(昭和15年)には伊豆諸島で最初の接岸[[桟橋]]を持つ岡田港が竣工した。
 
1923年(大正12年)9月1日の[[大正関東地震]]([[関東大震災]])では、高さ12 mの[[津波]]が襲った。
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1964年(昭和39年)7月7日に、[[富士箱根伊豆国立公園]]の一部となり<ref>1964年(昭和39年)7月7日厚生省告示第318号「国立公園に関する件」</ref>、伊豆七島国定公園の指定が解除される<ref>1964年(昭和39年)7月7日厚生省告示第319号「国定公園に関する件」</ref>。また同年に、伊豆大島の娘心を歌った[[都はるみ]]の『[[アンコ椿は恋の花]]』が大ヒットする。
 
1965年(昭和40年)1月11日午後11時頃に、元町港のすぐ近くにある寿司屋を兼ねた旅館を火元とする大火があり、折からの強風にあおられて消失面積15万[[平方メートル]]、全焼418戸、罹災408世帯の被害が出て1311名が焼け出される被害が出た。この火災に対しては[[災害救助法]]が適用された。この火災については約30キロメートル離れた対岸の伊豆半島の[[熱川温泉|熱川]]や[[稲取]]からも見えたという。
{{See|大島大火}}
 
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== 伊豆大島の社寺 ==
『[[延喜式]]』神名帳には伊豆国[[賀茂郡]]の[[神社]]として波布比売命神社、阿治古神社、波治神社の名があり、それぞれ島内の波浮港の羽布比命神社、野増の大宮神社、泉津の波知加麻神社に比定され、当時からこれらの神社が存在していたことがわかる。[[近世]]初頭の『伊豆国三嶋神主家系図』の記述では、[[慶雲]]元年([[704(704]])に三原山が噴火したことから興島([[三宅島]]と推定される)に祀っていた三島宮(現・[[静岡県]][[三島市]]の[[三嶋大社]])を大島に移したという。なお、三島宮はこの後の[[天平]]7年([[735(735]])に現在地の[[伊豆国#国府・国分寺・一宮など|伊豆府中]]に遷座した。また『[[今昔物語集|今昔物語]]』には、配流された[[役小角]]が勤行したとされる山で蔵海という僧が[[嵯峨天皇]]の頃に修行を積み、地蔵寺を建立したという話がある。
 
== 遺跡 ==