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益州支配後、劉備が益州に備蓄してあった財産や農地を分配しようとした際、趙雲が反対したので劉備はそれに従ったという。[[漢中郡|漢中]]攻め([[定軍山の戦い]])では[[黄忠]]を救出し見事な撤退戦と[[空城計]]を演じたため、劉備から「子龍は一身これ胆なり(子龍一身都是膽也、子龍は度胸の塊の意)」と賞賛され、軍中において虎威将軍と呼ばれるようになった。このエピソードは『[[資治通鑑]]』にも載っている。
 
[[章武]]元年([[221年]])、[[呉 (三国)|呉]]を討とうとする劉備を諫めたが聴き容れられず([[夷陵の戦い]])、趙雲は江州督として留まった。劉備が敗戦すると永安まで兵を進めこれを救援した。
 
建興6年(228年)、曹真に敗北した趙雲が軍需物資を殆ど捨てずに退却したため、諸葛亮は恩賞として趙雲軍の将兵に分配しようとした。しかし趙雲は、敗戦にあって恩賞を出すのは道理に合わないとして固辞し、冬の備えとするよう進言した。『[[水経注]]』によると、この撤退戦の際、赤崖より北の百余里に渡る架け橋を焼き落すことで、魏軍の追撃を断ち切っており、その後しばらくは鄧芝と共に赤崖の守りにつき、[[屯田]]を行っている。