「上町台地」の版間の差分

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[[大坂の陣|大坂夏の陣]]後に大坂城下の復興にあたった[[松平忠明]]は、豊臣期に惣構堀内となっていた[[渡辺津|渡辺]]・[[玉造 (大阪市)|玉造]]の地に再び町人地を置くこととし、[[伏見区|伏見]]からの移住者を中心に再興を図った。ただし、町人地にならなかった箇所も点在しており、それらは玉造平野口町の高津屋吉右衛門に肝煎させて[[西成郡]]吉右衛門肝煎地となった。一方、惣構堀外となる空堀跡以南に広がっていた屋敷地や町人地は破却されて年貢地(畑地)となり、空堀跡は吉右衛門肝煎地、[[五條宮]]に至る屋敷地・町人地は[[東成郡]]北平野町村や南平野町村(現在の東平や上汐)といった年貢地となった。船場の南、[[島之内]]に隣り合う地域は御用瓦師に払い下げられて瓦土取場となったが、この辺りは古来高津瓦や高原焼の産地でもあった。また、後の[[大阪大空襲]]による被害が少なかったため、戦前の木造建築なども残っている。
 
空堀跡以南の変化において屋敷地・町人地の破却に増して大きかったものは、四天王寺にかけて[[寺町]]群が形成されたことである。大市中に点在していた寺院のうち[[浄土真宗]]以外の寺院が上町台地上に移転され、東成郡小橋村・東高津村・[[天王寺村]]・[[西成郡]]西高津村領内に、小橋寺町(12ヶ寺)・八丁目東寺町(11ヶ寺)・八丁目中寺町(15ヶ寺)・八丁目寺町(13ヶ寺)・谷町筋八丁目寺町(16ヶ寺)・生玉筋中寺町(24ヶ寺)・生玉中寺町(12ヶ寺)・生玉寺町(14ヶ寺)・天王寺寺町(14ヶ寺)・[[下寺町 (大阪市)|下寺町]](25ヶ寺)が形成された。
 
以後今日に至るまで寺院の木々の緑が上町台地を彩っている。歴史のある寺や神社、「[[天王寺七坂]]」と呼ばれる台地西端の崖地を降りる坂道、空襲から焼け残った空堀や谷町六丁目付近の長屋の家並みや商店街、[[上六]]の繁華街、昭和町・田辺・[[帝塚山]]などの戦前の郊外にあたる屋敷町、[[天王寺公園]]など、上町台地には緑の少ないと言われている大阪<ref>大都市比較統計年表(平成17 年)より、政令指定市で最も狭い1人当り公園面積3.52平米である。なお、東京都区部は2.90平米/人</ref>の都心でありながら、風情や緑のあるところが数多く残されている。