メインメニューを開く

差分

編集の要約なし
=== 忠興に嫁ぐ ===
[[ファイル:Akechi jinja FUKUI.JPG|thumb|250x250px|細川ガラシャ生誕の地(明智神社([[福井市]])]]
[[永禄]]6年([[1563年]])、明智光秀と妻・[[妻木煕子|煕子]]の間に三女(四として産まれる。しかし次女説もある。ただしこり<ref>田端泰子「戦国期場合、長女「家」は養性―細川ガラシャの役割―」(京都橘であり、実質は次子大学となる)として性歴史文化研究所編『京都の女性史』思文閣出版、2002年)51頁</ref>。[[越前国]]で生まれる。
 
[[天正]]6年([[1578年]])8月15歳の時に父の主君・[[織田信長]]のすすめによって[[細川幽斎|細川藤孝]]の[[嫡男]]・忠興に嫁いだ<ref>田端泰子「戦国期の「家」と女性―細川ガラシャの役割―」(京都橘女子大学女性歴史文化研究所編『京都の女性史』思文閣出版、2002年)55頁</ref>。天正7年([[1579年]])には長女が、同8年([[1580年]])には[[長男]]([[細川忠隆]]、後の長岡休無)が2人の間に生まれた。
 
=== 本能寺の変 ===
しかし天正10年([[1582年]])6月、父の光秀が織田信長を[[本能寺]]で討って([[本能寺の変]])自らも[[山崎の戦い]]後に滅んだため、珠は「逆臣謀叛人の娘」となる。忠興は天正12年([[1584年]])まで彼女を[[丹後国]]の味土野(現在の[[京都府]][[京丹後市]][[弥栄町 (京丹後市)|弥栄町]])に隔離・幽閉(逆臣として狙われるのを防ぐため)する。この間の彼女を支えたのは、結婚する時に付けられた[[小侍従 (細川ガラシャの侍女)|小侍従]]や、細川家の親戚筋にあたる清原家の[[清原マリア]]([[公家]]・[[清原枝賢]]の娘)らの侍女達だった。
 
珠の幽閉先とされる場所であるが、丹後味土野の山中(現京丹後市弥栄町)に天正10年9月以降に幽閉されたことは史実である。しかし一方、「丹波史」には丹波味土野に珠が隠棲していたとの伝承「丹波味土野説」がある。この伝承が事実とすると、本能寺の変直後には、細川忠興は珠をまず明智領の丹波味土野屋敷に送り返し、明智が滅亡したのちに改めて細川領の丹後味土野に屋敷を作って珠を幽閉したとも考えられる。