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=== 大日本帝国憲法 ===
[[画像:Kenpohapu-chikanobu.jpg|thumb|225px|thumb|大日本帝国憲法の発布式]]
[[画像:Inoue Kowashi.jpg|thumb|150px|thumb|[[井上毅]]]]
{{main|大日本帝国憲法}}
 
;憲法制定に至るまで
:[[伊藤博文]]は[[井上毅]]、[[伊東巳代治]]、[[金子堅太郎]]、[[ヘルマン・ロエスレル]]らと憲法制定の準備を開始し、1888年(明治21年)[[枢密院 (日本)|枢密院]]を設置した。そして、1889年(明治22年)[[黒田清隆]]内閣の時に君主権が強い[[プロイセン王国|プロイセン]]憲法を模倣した[[大日本帝国憲法]]が明治天皇から臣下に授ける形で制定された。
 
;大日本帝国憲法の内容
:同憲法は[[天皇]]を[[大日本帝国憲法第3条|第3条]]で神聖不可侵と規定し、[[大日本帝国憲法第4条|第4条]]で統治権を総攬する[[元首]]と規定した。つまり形式上は天皇が権力の総元締ということになった。
:三権に関しては以下の通りである。第1に[[立法]]権であるが天皇は第5条において[[帝国議会]]の協賛を以って行使すると規定された。天皇の立法権は概ね法律の裁可が中心で、またその裁可には国務大臣の[[連署・副署|副署]]が必要とされた。つまり、大臣の副署を経てから天皇が裁可し法案が成立する、という形式である。また、帝国議会は[[選挙]]で選ばれる国会議員からる[[衆議院]](下院)と[[華族]]や[[皇族]]などからる[[貴族院 (日本)|貴族院]](上院)の[[二院制|二院]]で構成された。第2に[[行政]]権であるが、後の[[日本国憲法]]と異なり[[議院内閣制]]に基づく連帯責任ではなく、第55条で各国務大臣は天皇を輔弼し個別に責任を負うものであった。第3に[[司法権]]であるが、第57条で天皇の名において法律により裁判所が司法権を行うものであった。
:この憲法の問題は主なものに以下の2つが挙げられる。第1は第11条に規定されている「天皇は陸海軍([[大日本帝国陸軍]]・[[大日本帝国海軍]])を統帥する」という規定であった。[[陸軍省]]・[[海軍省]]を有する内閣や帝国議会は軍部(陸軍:[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]、海軍:[[軍令部]])に対して直接関与できなかった。第2は第21条で規定された「法律の範囲内において自由である」という[[臣民]](国民)の権利であった。
:また、[[黒田清隆]]首相は「政党の動向に左右されず、超然として公正な施策を行おうとする政府の政治姿勢」を示し、議会と対立した。
:その後1889年(明治22年)の[[大日本帝国憲法]]公布に伴い「[[衆議院]][[議員]][[選挙]]」法が公布され、「直接国税15円以上を納税した25歳以上の男子のみ」に[[選挙権]]を与えた制限選挙を実施し、1890年(明治23年)に最初の第1回[[帝国議会]]が開会された。
 
;発布
:憲法の発布により天皇中心の国家体制が確立されるとともに国民の権利と自由が認められ、国政参加への道が開かれた。不十分であったとはいえ、他のアジア諸国に先駆けて憲法と議会を持つ近代国家への道を歩み始めた。
:[[日本法]]において[[民法]]・[[商法]]などの諸法典も制定された。民法はフランスの[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード]]の助言を受け、[[フランス民法典]]と日本の[[慣習法]]を折衷したものであったが、特に「家族制度についての規定が[[家父長制]]に基づく日本の美風に背く」として非難が起こり実施が一時延期された。
 
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