「広島原爆で被爆したアメリカ人」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
→被爆: 「検証」欄における1985年6月レーガン大統領演説の内容に基づきブリセット氏の階級を修正 |
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
267行目:
実は捕虜以外にもアメリカ国籍の被爆者はいる。戦前期の広島県が「移民県」であったことを背景に、被爆当時の広島市には開戦以前に親戚への訪問や日本国内への進学を理由として来広し、開戦によりそのまま帰米不能となった多数の[[日系アメリカ人]]が在住し、被爆した<ref>[[袖井林二郎]] 『私たちは敵だったのか;在米被爆者の黙示録』(増補新版) [[岩波書店|岩波同時代ライブラリー]]、[[1995年]] ISBN 400260232X</ref>。またアメリカ系日本人としては、日本人との結婚で日本国籍を取得したのち、開戦直前に帰国した夫に同行して広島に在住していたところ、警察当局による軟禁状態のもと被爆した女性([[1974年]]死去)の例が知られている<ref>[[朝日新聞]]広島支局 『爆心;中島の生と死』 [[朝日新聞出版|朝日新聞社]]、[[1986年]] ISBN 4022555696、pp.60-63。</ref>。
伝統に則し、日系アメリカ人被爆者の多くは正式な日本のしつけを受けるため、日本に滞在していた(家族に会うため一時的に帰国していた者もいた)。真珠湾攻撃以降、彼らがアメリカに帰国することはかなわず、実に幾千もの名もなきアメリカ市民が原爆の永遠の被害者となった。広島では、日系アメリカ人被爆者が原爆の恐怖を体験し、多くが命を失い、家族を亡くし、身体的、精神的に深い傷を負った。終戦後、1947年初頭から約1000人(うち4分の3が女性)のアメリカ人被爆者がアメリカ(主にカリフォルニアとハワイ)への再移住を開始した<ref>[http://www.discovernikkei.org/ja/journal/2014/10/27/radiating-distress-1/ 放散する苦悩:アメリカ政府に賠償を求めたアメリカ人被爆者の戦いの物語]</ref>。1970年代前半、原爆投下から約30年後、アメリカ人ヒバクシャ(原爆後生き延びた者を日本語ではこう呼んでいる)は、アメリカ政府に無料の医療保障を求める積極的戦いを開始した。医療費無償化のためのこの戦いのリーダーの一人が、ミツオ・イノウエであった。彼は原爆被害者を救済するための戦いを自分自身の一生をかけた使命の一つとした。アメリカ人被爆者の多くが魅かれたのは、無料の医療保障の経済的側面だけでなく、それに象徴される、アメリカというるつぼの中の彼らの永続的居場所であった。最終的に日系人被爆者は、米国政府から無料の医療保障を受けることはできなかった。その最大の理由は、アメリカ国内の認識や見解が、放射能の影響、アメリカ人被爆者は
[[バラク・オバマの広島訪問]]に先駆け、2016年5月22日、米国広島・長崎原爆被爆者協会(ASA)のメンバー4人が小東京の高野山米国別院に集まり会見を開いた。ASAによると、アメリカにはおよそ1000人の被爆者がいて、その多くが西海岸とハワイに暮らしているという<ref>[http://www.rafu.com/2016/05/%E6%97%A5%E7%B3%BB%E8%A2%AB%E7%88%86%E8%80%85%EF%BC%9A%E3%82%AA%E3%83%90%E3%83%9E%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E3%81%AE%E5%BA%83%E5%B3%B6%E8%A8%AA%E5%95%8F%E6%AD%93%E8%BF%8E/ 日系被爆者:オバマ大統領の広島訪問歓迎【上】]</ref><ref>[http://www.rafu.com/2016/06/%E6%97%A5%E7%B3%BB%E8%A2%AB%E7%88%86%E8%80%85%EF%BC%9A%E3%82%AA%E3%83%90%E3%83%9E%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E3%81%AE%E5%BA%83%E5%B3%B6%E8%A8%AA%E5%95%8F%E6%AD%93%E8%BF%8E%E3%80%90%E4%B8%8B%E3%80%91/ 日系被爆者:オバマ大統領の広島訪問歓迎【下】 ]</ref>。
|