「カール6世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
整理 |
→戦乱と隆盛、経済政策: 仮リンクの修正 |
||
72行目:
さらに[[1716年]]、[[オスマン帝国]]との間に[[墺土戦争 (1716年-1718年)|墺土戦争]]が起こると[[バルカン半島]]に[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]を派遣してオスマン帝国[[スルターン|スルタン]]・[[アフメト3世]]と戦い勝利、[[1718年]]の[[パッサロヴィッツ条約]]でオスマン帝国から[[ベオグラード]]を奪う。
こうした東西両方面への領土拡張の結果、[[ハプスブルク帝国|ハプスブルク君主国]]史上最大の版図を築き上げた<ref name="kanazawa1966-187">[[#進藤 1966|進藤 1966]] p.187</ref>。さらに、カール6世は[[重商主義]]政策をとり、[[1718年]]に東西インド貿易{{efn|[[東インド会社]]及び[[西インド会社]]を参照}}のために{{仮リンク|オース
スペイン領イタリアの奪回を夢見るスペインとの対立は続き、フェリペ5世は[[サルデーニャ]]とシチリアを占領する強硬策に出たため、1718年に勃発した[[四国同盟戦争]]に巻き込まれた。たび重なる戦争で疲憊している同盟側はスペインを圧倒するものの、決定的な勝利を得ることができず、[[パルマ公国]]を譲渡する羽目になった。[[大北方戦争]]では[[ロシア・ツァーリ国|ロシア]]の[[ツァーリ]]・[[ピョートル1世]]の[[バルト海]]進出を抑えるためイギリス王兼[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ハノーファー選帝侯]][[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]および[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]王兼[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]][[アウグスト2世 (ポーランド王)|アウグスト2世]]と同盟を結んだ。しかし、その後消極的な姿勢を取ったためイギリスが離反して[[1721年]]にフランス・スペインと同盟を結び、オーストリアは孤立した。
|