「内藤義孝」の版間の差分
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{{出典の明記|date=2019年3月3日 (日) 13:15 (UTC)}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 内藤義孝
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[江戸時代]]前期 - 中期
| 生誕 = [[寛文]]9年[[4月24日 (旧暦)|4月24日]]([[1669年]][[5月23日]])
| 死没 = [[正徳 (日本)|正徳]]2年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]([[1713年]][[1月6日]])
| 改名 =
| 別名 = 俳号:露江
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[従五位|従五位下]][[能登国|能登守]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 = [[徳川綱吉]]→[[徳川家宣|家宣]]
| 藩 = [[陸奥国|陸奥]][[磐城平藩]]藩主
| 氏族 = [[内藤氏#内藤氏(三河系)|内藤氏]]
| 父母 = 父:[[内藤義概]]、母:[[三条実秀]]娘
| 兄弟 = [[内藤義邦|義邦]]、[[内藤義英|義英]]、'''義孝'''、[[岡部長泰]]正室、[[小出英安]]正室
| 妻 = 正室:'''[[土屋政直]]娘'''
| 子 = [[内藤義覚|義覚]]、[[内藤義稠|義稠]]、[[松平信岑]]正室ら
| 特記事項 =
}}
'''内藤 義孝'''(ないとう よしたか)は、[[江戸時代]]前期から中期にかけての[[大名]]・[[俳句|俳人]]。[[陸奥国]][[磐城平藩]]4代藩主。[[延岡藩]][[内藤氏|内藤家]]宗家4代。[[官位]]は[[従五位|従五位下]]・[[能登国|能登守]]。
== 概要 ==▼
3代藩主・[[内藤義概]]の三男として誕生。母は[[三条実秀]]の娘。長兄
[[貞享]]2年([[1685年]])に父が死去したため、家督を継いだ。
父や次兄と同じく、[[俳諧]]に興味を示して「露江」と呼ばれる俳号を持つ優れた俳人として知られた。しかしその一方で、父のように俳句に耽溺せず、松賀一派の専横を抑えることにも努めた。藩政においては[[湯本神社]]の建設([[元禄]]8年([[1695年]]))など、藩政の安定化に努めたことから、初代藩主[[内藤政長]]に次ぐ名君とまで称された。ただし『[[土芥寇讎記]]』に拠れば、義孝当人は「文も学ばず武も学ばず、武芸にも励まず、朝夕猿楽にのめり込んで浪費している」と書かれており、その影響か「家人ども、猿楽を好みて、謡・仕舞・囃子等にのみ心をとられ、武芸に励む人一人もなし」という藩状態であったとされており、「主将の器とするには足りず」と断されている。同書で父親の義概については「(義孝の)父は酒宴を好み、女色に耽る」とされている。
[[正徳 (日本)|正徳]]2年
義孝が所要した[[具足]]と言われる「紺糸素懸縅二枚胴具足」が、[[宮崎県]][[延岡市]]の文化財として現在も保存されている。
== 系譜 ==
*父:[[内藤義概]]
*母:[[三条実秀]]娘
*正室:[[土屋政直]]娘
**次男:[[内藤義稠]]
*生母不明の子女
**長男:[[内藤義覚]]
**女子:[[松平信岑]]正室
{{磐城平藩主|内藤氏|4代|1685年 - 1712年}}
{{
[[Category:内藤左馬助家|よしたか]]▼
[[Category:磐城平藩主]]
[[Category:江戸時代の俳人]]
▲[[Category:内藤左馬助家|よしたか]]
[[Category:1669年生]]
[[Category:1713年没]]
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