「高田渡」の版間の差分

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[[1964年]]、中卒後、あかつき印刷に文選工として就職。民青に所属。社内のバンドでウクレレ担当となり、これが初めて弾いた楽器であった。ソ連に行きたいと考え、日ソ学院に通い、ロシア語を学ぶ<ref>高田渡『バーボン・ストリート・ブルース』([[ちくま文庫]])。</ref>。。
 
[[1966年]]、音楽評論家の三橋一夫にアメリカ民謡や明治演歌について教わる。アメリカでフォークソングの勉強をしようと考え、ピート・シーガーに手紙を送り。返事をもらう。その他にも[[灰田勝彦]]のバンジョー教室に通ったり、うたごえ喫茶「灯火」で[[上條恒彦]]に歌唱指導を受けたりと、着々とフォークシンガーへの道を歩んでいく。当時、高田渡は「マイフレンド」というノートを持っており、唯一の友として、ノートに話しかけるかたちで日記や詩や音楽への考えなどを綴っていた。このノートは、2015年に息子の[[高田漣]]の編集によって出版された<ref>高田渡『バーボン・ストリート・ブルース』([[ちくま文庫]])</ref><ref>高田渡『マイフレンド 高田渡青春日記 1966-1969』([[河出書房新社]])</ref>。
 
===新宿時代===