「二階堂トクヨ」の版間の差分

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留学時代について。
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東京女高師での仕事は、6時間の授業と井口阿くり・[[永井道明]]両教授の補佐であった{{sfn|西村|1983|p=54}}。ところが井口は同年7月に藤田積造と結婚して退職した{{#tag:ref|井口の退職は、文科出身ながら体育に一生を捧げようとしているトクヨの熱意に打たれた井口が、自らの後任とすべく引退したという説がある{{sfn|西村|1983|p=54}}。井口は退職時に「其筋へも学校へもあなたを推薦して行きますから」とトクヨに声をかけている{{sfn|西村|1983|p=54}}。|group="注"}}ため、トクヨは井口の後任として女子体育の指導者の重責を負うことになった{{sfn|西村|1983|p=54}}。
 
 
=== 英国留学(1912-) ===
[[1912年]](大正元年)[[10月1日]]、トクヨは体操研究のため2年間のイギリス留学を命じられた{{sfn|西村|1983|p=3}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=65}}。留学を推薦したのは上司の永井道明であり、永井は女子体育の担い手としてトクヨに期待していた{{sfn|西村|1983|p=3}}。[[11月20日]]、[[曇り]]空の下で永井道明、安井てつ、長沼智恵子(後に高村姓となる)、[[高村光太郎]]ら10人が見送りに駆けつけ、横浜港から旅立った{{sfn|西村|1983|p=1}}。イギリスに派遣された日本女性の体育留学生は井口阿くり以来2人目であった{{sfn|曽我・平工・中村|2015|p=1997}}。[[1915年]](大正4年)に[[東京女子師範学校]]教授となり、第六臨時教員養成所教授を兼任する<ref name="jwcpe"/>
 
[[1913年]](大正13年)[[1月15日]]、{{仮リンク|ロイヤルアルバートドック|en|Royal Albert Dock}}に入港しイギリスに到着するも、予定より1日早く着いたため迎えの人が来ておらず、船中でもう一夜を明かした{{sfn|西村|1983|pp=4-5}}。翌1月16日、迎えは来たものの、その人は留学先のキングスフィールド体操専門学校(現・{{仮リンク|グリニッジ大学|en|University of Greenwich}})の場所を知らず、雨の降る中ようやく夕方に学校に到着し、入学手続きを行った{{sfn|西村|1983|p=5}}。学校側は「[[アシスタント・プロフェッサー]]が留学してくる」と聞いて身構えたが、いざトクヨに試験を課すと何も知らないことが判明し、トクヨは「一体まあ、何をあなたは教えていました?」と教師一同から問われてしまった{{sfn|西村|1983|pp=83-85}}。そんな中で唯一、「家庭競技」だけは「興味ある室内ゲームだ」と高評価を得た{{sfn|西村|1983|p=85}}。
 
キングスフィールド体操専門学校の授業は理論と実科に分かれ、理論では[[生理学]]・[[解剖学]]・[[衛生学]]など、実科では教育体操・医療体操・[[舞踊]]・[[競技]]などを学び、理論と実科にまたがる「教授法」の科目もあった{{sfn|西村|1983|p=89}}。最初は何も知らないと驚いていた教師陣も、日々急速に成長していくトクヨに「天才だ」と賛辞を贈るようになった{{sfn|西村|1983|pp=92-93}}。トクヨが最も影響を受けたのは、校長の[[マルチナ・バーグマン=オスターバーグ]]であった{{sfn|穴水|2001|pp=17-18}}。学校の長期休暇中は、[[ロンドン]]市内の女子体操学校を参観し、[[チェシャー|チェシャー州]]{{仮リンク|オルトリンガム|en|Altrincham}}[[夏季学校]]での[[水泳]]練習、ロンドンの舞踊塾での[[ダンス]]練習に励んだ{{sfn|西村|1983|pp=94-98}}。特に水泳は苦手で最も苦しんだが、1か月後には一通りの型を習得し{{#tag:ref|水に入っているのは1日1回30分までという規則を破って3時間練習したり、1日2回入水したりして猛練習した成果である{{sfn|西村|1983|p=95}}。これを知った教師は「そんな無理をするなら証明書はやらない」と激怒したが、限られた時間内で水泳の実力を付けたかったトクヨにとって証明書の取得は重要なことではなく、ついに教師側が折れてトクヨは猛練習を認められた{{sfn|西村|1983|p=95}}。|group="注"}}学年1位の成績を得た{{sfn|西村|1983|p=95}}。
 
[[1915年]](大正4年)に[[東京女子師範学校]]教授となり、第六臨時教員養成所教授を兼任する<ref name="jwcpe"/>。[[1922年]]、私財を投げ打ち、[[日本女子体育大学]]の前身となる「二階堂体操塾」を開いた<ref name="jwcpe"/>。塾生には1928年の[[1928年アムステルダムオリンピック|アムステルダムオリンピック]]に日本女子選手として初出場し、陸上[[800メートル競走|800m走]]で同じく日本女子史上初となる[[銀メダル]]を獲得した[[人見絹枝]]がいた<ref name="ks1903"/>。1926年(大正15年)3月、日本女子体育専門学校に昇格・改称した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。この頃のトクヨは忙しさのあまり居留守を使ったり、黒髪を切り[[スキンヘッド|丸坊主]]になったりしたエピソードが関係者の間で知られている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。来客時には[[かつら (装身具)|かつら]]を着用したが、慌ててかぶるため、[[眉毛]]の近くまでかかっている時から大きく後退している時まであった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=124}}。
 
[[1941年]](昭和16年)[[4月7日]]、日本女子体育専門学校の[[入学式]]の朝に倒れ、東京海軍共済組合病院(現・[[東京共済病院]])に入院、後に本人の希望で[[慶應義塾大学病院]]に転院した{{sfn|西村|1983|p=252}}。病名は[[胃癌|胃ガン]]で、ほかに[[糖尿病]]や[[白内障]]などの持病があった{{sfn|西村|1983|p=252}}。入院中、日本女子体育専門学校の生徒や卒業生は看病や見舞い、[[輸血]]を申し出たが、一切断っている{{sfn|西村|1983|p=253}}。同年7月17日午前1時40分に死去、60歳であった{{sfn|西村|1983|p=254, 262}}。当日は稀に見るような暑さであったという{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。生涯[[独身]]であった{{sfn|西村|1983|p=247}}。
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** トリノの夫で小学校教師{{sfn|西村|1983|p=14}}。トクヨに『日本外史』を教え、トクヨの勉学の才能を開花させた{{sfn|西村|1983|p=14}}。
* 母方の祖父:小梁川正之助{{sfn|西村|1983|p=9}}
** 元・藩士、士族{{sfn|西村|1983|p=9}}。[[黒川郡]][[大松沢村]](現・[[大郷町]])新田に居を構えた{{sfn|西村|1983|p=9}}。トクヨの福島師範進学の際にトクヨに付き添い、って養父となる小笠原に挨拶し、トクヨの留学出発前には「外つくにの 学びの園に あそぶとも ゆめな忘れそ 大和国ふり」とる{{sfn|西村|1983|p=20}}。う励ましの短歌を記した[[黒川郡短冊]][[大松沢村]](現・[[大郷町]])新田に居構え贈った{{sfn|西村|1983|p=94, 20}}。
* 母:二階堂キン{{sfn|西村|1983|p=9}}
** 小梁川正之助の長女{{sfn|西村|1983|p=9}}。18歳で保治と結婚する{{sfn|穴水|2001|p=10}}。気丈で男勝りな性格であり、畑仕事は得意であったが文字は読めず、[[裁縫]]もできなかった{{sfn|西村|1983|p=9}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=13}}。しかし字面の雰囲気でほぼ正確に内容を読み取り、[[古川市|古川]]の裁縫塾に通って裁縫を身に付けたという{{sfn|西村|1983|p=9}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=13}}。夫亡き後は1人で家を支え、後に二階堂体操塾の運営も手助けした{{sfn|西村|1983|p=9}}。1943年(昭和18年)、85歳で死去{{sfn|西村|1983|p=9}}。