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スコット・ギャロウェイの著書''The Four: The Hidden DNA of Amazon, Apple, Facebook, and Google''<ref>{{Cite web|title=The Four Book|url=http://www.thefourbook.com/|website=www.thefourbook.com|accessdate=2019-02-28}}</ref>の翻訳本に日本独自で付けられたタイトル『the four GAFA 四騎士が創り変えた世界』から、[[GAFA]]という呼称でまとめて呼ばれ、[[Amazon.com|Amazon]]、[[Facebook]]、[[Alphabet (企業)|Google]]とともに世界的な巨大企業の一つであるとの認識が広がっている<ref>[https://kotobank.jp/word/GAFA-1999733#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 ガーファ【GAFA】 - デジタル大辞泉] [[コトバンク]]. 2018年12月27日閲覧。</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/GAFA-1999733#E7.9F.A5.E6.81.B5.E8.94.B5 GAFA - 知恵蔵] [[コトバンク]]. 2018年12月27日閲覧。</ref><ref>[https://www.accenture.com/us-en/insight-digital-banking-beyond-everyday-bank GAFA Approach to Digital Banking Transformation] [[アクセンチュア|Accenture]]. 2018年12月27日閲覧。</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.barrons.com/articles/ranking-the-big-four-internet-stocks-google-is-no-1-apple-comes-in-last-1503412102|title=Ranking The Big Four Tech Stocks: Google Is No. 1, Apple Comes In Last|last=Rivas|first=Teresa|website=www.barrons.com|language=en|accessdate=February 22, 2019}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.bloomberg.com/opinion/articles/2017-10-31/the-big-four-of-technology|title=The Big Four of Technology|last=Ritholtz|first=Barry|date=October 31, 2017|website=bloomberg.com|lanuage=en|accessdate=February 22, 2019}}</ref>。
== 歴史・沿革 ==
{{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}
=== 創業とApple I ===
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=== 法人化とApple II ===
[[ファイル:Apple_II_Plus.jpg|thumb|250px|1979年6月に登場した[[Apple II]] Plus。同年10月に発売されたApple II専用[[表計算ソフト]]「[[VisiCalc]]」の大ヒットは販売を大幅に増加させた{{sfn|Linzmayer|2004|pages=13-15}}。]]
テレルとの取引で約8000ドルの利益を得たジョブズは、Apple Iを大量に製造・販売して事業を拡大することを望み、そのために多額の資金が必要となった<ref name=LZ8/>。ジョブズは[[セコイア・キャピタル]]の創業者[[ドン・バレンタイン]]に融資を求めたが、バレンタインはアップルコンピュータへの投資に興味を持たず、代わりに自分の元部下で、個人投資家として財を成していた[[マイク・マークラ]]を紹介した{{sfn|Linzmayer|2004|page=9}}。
当時34歳のマークラは若くして引退生活を送っていたが、ジョブズの野心とウォズニアックの技術的才能に心を動かされ、
1977年1月3日、アップルコンピュータは[[法人]]化され、“'''Apple Computer, Inc.'''” となった{{sfn|Linzmayer|2004|page=10}}。マークラはアップルの成長には経験豊富な経営者が不可欠と考え、[[ナショナル セミコンダクター]]から元同僚の{{ill2|マイケル・スコット (アップル)|en|Michael Scott (Apple)|label=マイケル・スコット}}を引き抜いて初代社長の座につけた{{sfn|Linzmayer|2004|page=11}}。スコットは1977年2月からアップルでの仕事を始め、社員番号を入れた社員証を発行するなど、会社をより組織的にするための施策を実行した{{sfn|Linzmayer|2004|page=11}}{{#tag:ref|社員番号1は、ウォズニアックに与えられたが、ジョブズはこれをスコットに抗議する。しかし、社員番号1を与えればジョブズの放漫が増すと考えたスコットはこれを拒んだ。ジョブズは結局、社員番号0(振込先の銀行が0番に対応していなかったので実務上は2)を手に入れることで妥協した。ちなみにマークラが3番、スコットが7番の社員番号であった(スコットは5番目の社員であったが、社員の増加を見込んで好きな数字を選んだ)|group="注"}}。
ウォズニアックはHPを退社する以前からApple Iの改良作業を続けており、1976年8月にはすでに[[Apple II]]の実動するプロトタイプを完成させていた{{sfn|Linzmayer|2004|page=9}}{{sfn|Swaine|2014|pages=345}}。Apple IIは1977年4月16日に[[ウェスト・コースト・コンピュータ・フェア]]で発表され、小売価格1,298ドルで発売された{{sfn|O'Grady|2009|page=3}}{{sfn|Linzmayer|2004|page=12}}。むき出しの[[マザーボード]]として販売されたApple Iとは大きく異なり、Apple II本体はキーボードや電源装置と一体化されており、購入後すぐにコンピュータとして使用することができたほか、外部[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]へのカラー表示が可能なのも大きな特長だった{{sfn|O'Grady|2009|page=5}}{{sfn|Linzmayer|2004|page=12}}。販売は当初から好調だったが、1978年7月に発売された専用[[フロッピーディスク]]ドライブ「{{ill2|Disk II|en|Disk II}}」と、1979年10月に発売された専用の[[表計算ソフト]]「[[VisiCalc]]」
=== 株式公開とApple III、Lisa ===
[[ファイル:Apple Lisa.jpg|thumb|200px|1983年に発売された[[Lisa (コンピュータ)|Lisa]]。当時としては先進的な機能を装備していたが、
[[1980年]]12月12日、アップルコンピュータは新規[[株式公開]] (IPO) を行い、1956年に自動車会社[[フォード・モーター|フォード]]が行ったIPO以来となる記録的規模の資金調達を果たした{{sfn|O'Grady|2009|page=6}}<ref>{{Cite book |ref={{harvid|Dormehl|2012}}|first=Luke |last=Dormehl |year=2012 |title=The Apple Revolution: Steve Jobs, the Counterculture and How the Crazy Ones Took over the World |publisher=Random House |isbn=9781448131365}} p. 137</ref>。IPOにより、750万株を持っていたジョブズは2億ドルを超える資産を手に入れた。
株式公開に先立つ1980年5月、アップルはビジネス向けに特化された[[Apple III]]を発表し、当時'''青い巨人''' (''Big Blue'') と呼ばれていた[[IBM]]にビジネス用コンピュータ市場で挑戦を仕掛けたが、4,340ドル-7,800ドルという価格設定の高さと、ハードウェアの設計上の欠陥がわざわいし、Apple IIIは商業的な失敗作に終わった{{sfn|O'Grady|2009|page=6}}。他方、IBMは1981年に[[IBM PC]]を発表して[[パーソナルコンピュータ]]市場へ参入し、アップルとIBMの競争は激化した。Appleは新聞広告で“'''Welcome, IBM. Seriously'''”と挑発したが、Apple IIは次第にIBMにシェアを奪われ、新しい製品が待望されるようになった。
▲[[ファイル:Apple Lisa.jpg|thumb|200px|1983年に発売された[[Lisa (コンピュータ)|Lisa]]。当時は先進的な機能を装備していたが、緩慢さと高価の影響で商業的に失敗した。]]
前後して、[[1978年]]にジョブズらがApple IIを打ち破る次世代パーソナルコンピュータの概念を練り上げるための[[ブレインストーミング]]が始まり、[[1979年]]の秋に2000ドル台のビジネス向けを念頭においた[[Lisa (コンピュータ)|Lisa]]プロジェクトが立ち上げられた<ref>Lisaの名前は、ジョブズが当時付き合っていた女性との非嫡出子の名前からとったとされているが、ジョブズ本人はその娘の名前からとったことは認めていない。</ref>。この頃、ジョブズは[[ゼロックス]]にAppleの株式と交換に[[パロアルト研究所]]の見学を申し出る。ゼロックスの役員は特に意識していなかったのだが、現場の開発者からは「ジョブズが来るということは盗用されてもおかしくない」という不満の声もあった。しかし、結果的に見学の申し出は受け入れられ、1979年の11月と12月の2回に渡り見学が行われた。先進的な[[Smalltalk]]で動く[[GUI]]を持ち、[[ビットマップ画像|ビットマップ]]ディスプレイと[[マウス (コンピュータ)|マウス]]で操作される[[Alto]]のデモにインスピレーションを得たジョブズは、Lisaにアルトと同じ機能を持たせることを意図し、設計に過剰に介入をし始めた。ジョブズがLisaプロジェクトを混乱させている原因と考えた社長のスコットは、1980年の秋にジョブズに株式公開のための仕事を割り当てて、Lisaプロジェクトのメンバーからジョブズを外した。
=== Macintoshの成功・ジョブズの追放 ===▼
[[ファイル:Macintosh 128k transparency.png|thumb|200px|1984年に発売された初代[[Macintosh 128K|Macintosh]]。ジョブズが「シンプル」を追求した末に完成させた。]]
一方で1979年にAppleに入社した[[ジェフ・ラスキン]]は、Apple IIが一般の人々には複雑すぎると考えていた。マイク・マークラはラスキンに500ドル台のゲーム機(コードネーム:アニー)の担当を打診したが、彼は500ドル台のパーソナルコンピュータの開発を提案し許可される。彼は[[カリフォルニア大学サンディエゴ校]]での教え子であった[[ビル・アトキンソン]]を雇い入れ、またApple IIのメンテナンス担当だったビュレル・スミスなど数人で1979年にMacintosh(マッキントッシュ) プロジェクトを開始する。Macintoshは北米ではポピュラーな小型の[[リンゴ]]の品種名(ただしリンゴの綴りはMcIntosh、和名は「旭」)である。
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そしてAppleは、Macintosh向けに[[キヤノン]]と共同開発した[[レーザープリンター]]であり、[[アドビシステムズ]]が開発した[[PostScript]]を搭載した[[LaserWriter]]を登場させ、コンピュータ上で描いた文字や絵を出力する際にドットの粗い[[ディザ]]を表示させることなく、奇麗な[[アウトライン]]で出力することを可能にした。また、[[アルダス]]社(現アドビシステムズ)の開発した[[PageMaker]]とMacintosh、レーザーライターを組み合わせることで、[[DTP]]という市場を創造した<ref name=":0">{{Cite web|title=印刷と出版を変革したPostScript(前編) {{!}} 大塚商会|url=https://www.otsuka-shokai.co.jp/media/it-history/chapter001/postscript-1.html|website=www.otsuka-shokai.co.jp|accessdate=2019-02-24|language=ja}}</ref>。現在でもDTP用途ではMacintoshが多用されているのは、この2つの製品による革命とPostScriptの採用<ref name=":0" />、高価ではあったが[[グラフィック]]処理にも耐え得る[[モトローラ]]製[[CPU]]の採用に起因していると言える。
▲=== ジョブズの追放 ===
[[1981年]]、スコットは能力不足を理由にマークラに解雇される。暫定的にマークラが社長の座についたが、ジョブズは会長ではあったものの、自身の経営者としての資質に疑問を抱き始めており、スコットの後任として[[マーケティング]]に優れた'''社長となる'''人物を連れてくる必要に迫られた。
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