「王朗 (後趙)」の版間の差分

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[[344年]]、王朗は後趙君主[[石虎]]を諫めて「今年は寒さが厳しく雪も多く降りましたが、皇太子([[石宣]])は人を使って宮廷の木を伐採させ、漳河から水を引き込みました。徴発された者は数万人に及び、怨嗟の声が満ちております。陛下はこのような状況で出遊なさるべきではないかと」と述べると、石虎はこれに従ったが、石宣はこの発言に憤り、王朗の殺害を考えるようになった。
 
同年4月、熒惑([[火星]])が[[宿]]に入るという出来事が起こると、石宣は[[太史令]][[趙攬]]に命じて上言させて「房とは天王の事であり、今熒惑がこれに入りました。その禍は些細なものではありません。貴臣で王姓の者を処断し、これを対処すべきです」と勧めると、石虎は「誰をそうすべきか」と問うた。趙攬は「王領軍(王朗)より貴いものはおりません」と答えたが、石虎は王朗の才を惜しみ、趙攬へその次について尋ねた。すると、趙攬は「その次は中書監[[王波]]であります」と述べた。これにより石虎は詔を下して王波の過去の失敗を蒸し返して罪に問い、これを腰斬に処した。
 
後に王朗は[[車騎将軍]]に昇進した。