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=== 衆議院副議長 ===
[[1993年]]に自民党を離党後、[[新生党]]を経て[[新進党]]の結党に参加。新進党では[[新進党#歴代役員表|幹事長]]代理]][[新進党#歴代役員表|政務会長]][[新進党#歴代役員表|国会運営委員長]]、[[新進党#歴代役員表|総務会長]]、[[新進党#歴代役員表|副党首]]を歴任し、[[1996年]]に[[衆議院議長|衆議院副議長]]に就任。[[2000年]]に再任された。副議長在任日数2498日は衆議院創設以来最長記録。当初、副議長就任には前向きではなかったが「[[早稲田大学雄弁会]]の後輩の[[小渕恵三]]が衆議院議長に就任するので」と説得され、副議長就任を引き受けた。しかし、小渕は[[1963年]]衆院選当選同期である[[橋本龍太郎]]首相の説得により、「上がりポスト」の衆院議長就任を固辞し、結局[[伊藤宗一郎]]が衆院議長に就任した。副議長就任時の慣例として党籍を離脱中に出身政党の新進党が解党し、[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]・[[新党友愛]]・[[新党平和]]・[[黎明クラブ]]・[[改革クラブ (1998-2002)|改革クラブ]]・[[国民の声]]の6党に分裂したが、渡部はそのいずれにも籍を置かず、[[無所属の会]](会派は[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]・[[無所属クラブ]]、選挙では与党の[[公明党]]や[[保守新党]]の推薦も受ける)に参加した。
 
2000年、衆議院副議長に再任。[[野党]]側から選出されるのが慣例の衆院副議長人事において、野党側が[[石井一]]を推したのに対し、[[与党]]側が唐突に渡部の擁立を表明した。渡部の副議長続投は当時の最大与党・自民党、特に[[自由民主党幹事長|幹事長]]の[[野中広務]]の強い意向であった。これは大の公明党嫌いで知られる石井が[[自自公連立政権]]を強く批判していたためである(ただし石井は新生党時代、公明党も参加する[[非自民]][[連立政権]]の一員であり、[[羽田内閣]]では入閣している)。野中の主導による渡部擁立に対して野党4党は一斉に反発し、「野中幹事長の私怨によって、暴挙がおこなわれようとしていることを看過できない。私たちは大人の[[政党]]として責任を果たしたい」([[鳩山由紀夫]])、「国会は与野党あっての国会。与党のため、自民党のため、ましてや野中幹事長のために存在するのではない」([[佐藤敬夫]])などとして野党4党は石井に揃って投票するとともに、賛成で臨むはずだった議長選挙では白紙で投票し抗議の意思を示した。しかし結果は渡部287票、石井189票で渡部が当選し、副議長に再任された。