「第9回十字軍」の版間の差分

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=== モンゴル人の攻撃 ===
エドワードはアッコに到着して間もなく、イルハン朝の[[アバカ]]のもとに使者を送り、モンゴル人との同盟構築を模索している。アバカはキリスト教徒([[ネストリウス派]])であり、マムルーク朝と対立していた。彼らからの援助を引き出すために、レギナルド・ロッセル、Wausのゴドフロワ、ジョン・オブ・パーカーらが派遣された<ref>''Histoire des Croisades III'', René Grousset, p. 653. Grousset quotes a contemporary source ("Eracles", p. 461) explaining that Edward contacted the Mongols "por querre secors" ("To ask for help").</ref>。1271年9月4日付の返書で、アバカは十字軍との協力に同意し、ふさわしいマムルーク朝攻撃時期をねてきた<ref>Preiss, p. 98</ref>。
 
1271年10月末、Samagar率いるモンゴル軍がシリアに到来した。しかしその実体は、イルハン朝に服属するアナトリアのセルジューク人の、たった1万人ほどの騎兵軍であった。アバカ自身が[[トルキスタン]]での紛争に忙殺され、イルハン朝の主力を[[レバント]]に送ることができなかったためである。とはいえ[[キト・ブカ]]の再来を思わせるモンゴル軍襲来の報がムスリム住民に与えた恐怖は大きく、難民が[[カイロ]]にまで流れ込んだ。「モンゴル軍」は[[アレッポ]]のトルコ人防衛軍を破って南進し、[[アパメア]]に至るまでを荒廃させた。しかし、11月12日にカイロからバイバルスの反攻軍が発った時には、モンゴル軍はすでに戦利品を満載して[[ユーフラテス川]]まで撤退していた<ref>''Histoire des Croisades III'', René Grousset, p. 653.</ref><ref>Runciman, p. 336-337</ref>。
 
=== 十字軍の終結 ===
戦闘では勝利したものの、イェルサレム奪還のために進撃を続けるには、エドワードは十字軍内のキリスト教諸国の対立を収めなければならなかった。彼はユーグ3世と[[イベリン家]]の対立を調停するなどする一方で、ユーグ3世とともにバイバルスとの停戦交渉も進めていた。1272年5月、[[カエサリア]]で10年10か月10日の休戦が合意された。その後エドワードは直ちに弟エドムンドをイングランドに帰還させたが、自らは休戦が履行されることを確認するためしばらく聖地にとどまった。その翌月、エドワードの暗殺未遂事件が起こった。暗殺者を放ったのは、ラムラの太守ともバイバルスともいわれ、[[暗殺教団]]の「山の老人」の仕業だったとする伝説もある。エドワードは暗殺者を倒したものの、自身も毒を塗った[[ダガー]]で重傷を負わされ、さらにイングランドが遅れることになった<ref>{{cite web|url=https://books.google.com/books?id=Vp2r3xyaDaEC&pg=PA78&dq=edward+i+assassin&hl=en&sa=X&ei=xotlVfi4CYq6uASZ8oBw&ved=0CBwQ6AEwAA#v=onepage&q=edward+i+assassin&f=false|title=Edward I|last=Prestwich|first=Michael|date=May 20, 1988|accessdate=November 30, 2018|publisher=University of California Press|via=Google Books}}</ref>。1272年9月、エドワードはアッコを発った。途中[[シチリア島]]で療養中、彼は息子ジョンと父[[ヘンリー3世]]の死を立て続けに知った。1273年になってエドワードはシチリア島を離れ、イタリア、[[ガスコーニュ]]、[[パリ]]を経由し、1274年半ばにようやくイングランドに帰還し、8月19日にエドワード1世として戴冠した。
 
== その後 ==
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