「豊臣秀次」の版間の差分

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Leonidjp (会話 | 投稿記録)
香川二郎 (会話) による ID:73280602 の版を取り消し 出典付きのものを、「推測に見えるから」というだけで除去すべきではない
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香川二郎 (会話) による ID:73280321 の版を取り消し 出典が示されているものは独自研究ではない。
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[[山科言経]]の『[[言経卿記]]』によると、[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]、秀吉は伏見城に来て、日本を5つに分け、そのうち4つを秀次に、残り1つを秀頼に譲ると申し渡したそうである{{sfnm|1a1=渡辺|1y=1919|1pp=94-95|2a1=小和田|2y=2002|2p=115}}。この後、秀次は[[熱海温泉|熱海]]に湯治に行ったが、旅先より淀殿に対して見舞状を出すなど良好な態度であった{{Sfn|小和田|2002|p=114}}。ところが、『駒井日記』の[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]の条によると、[[駒井重勝]]は、秀吉の[[右筆|祐筆]]の[[木下吉隆|木下半介]](吉隆)から聞いた話として、秀吉は前田利家夫妻を仲人として、まだ生まれたばかりの秀頼と秀次の娘(八百姫{{efn|『兼見卿記』による。この人物は文禄元年あるいは文禄二年に生まれて、文禄3年か翌年の7月13日に亡くなっている。}}もしくはのちの[[露月院]]<ref>ただし伝わっている享年9才とは矛盾する。</ref>)を婚約させるつもりであり、将来は舅婿の関係とすることで両人に天下を受け継がせる考えで、秀次が湯治より帰ったらそう申し渡されると書いている{{sfn|徳富|1935|pp=205-208|ref=cc}}{{sfnm|1a1=小和田|1y=2002|1pp=114-115|2a1=渡辺|2y=1919|2pp=95-96}}。これからは3代目の後継者は秀頼としたいという秀吉の意図が読み取れる。淀殿に対する見舞状への返信が10月8日に届いており<ref>{{Cite book|author=|title=『史籍集覧. 25』収録『駒井日記』|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920418/261|date=|year=|accessdate=|publisher=|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>、『福田寺文書』に収録されている淀殿の返信が該当するものと思われる。同書状で淀殿はお互いの子供同士の縁談について喜びをみせている。
 
[[宮本義己]]は、[[御典医|典医]]・[[曲直瀬玄朔]]の[[診療録]]である『玄朔道三配剤録』『医学天正日記』を分析して、秀頼が誕生してから、秀次は[[気管支喘息|喘息]]の症状が強くなるなど、心身の調子が不安定であったと指摘。それは失われるものに対する恐怖心のなせるわざで、すなわち秀次の権力への執着心の強さを示していると主張した<ref name="miya1">{{harvnb|宮本|1988|pp=237-254}}</ref><ref name="p168-169">{{Harvnb|小和田|2002|pp=168-169}}</ref>。先の熱海温泉への湯治も秀次の喘息治療のためであったが、前述のように秀吉の露骨な秀頼溺愛があって、心休まるような状態ではなく、むしろ悪化したようだ。[[小林千草]]は、秀次はもともと激情の人であり、突然の環境の変化が「理性のはどめのきかない部分」を助長したのではないかと言う<ref name="p168-169"/>。
両者の関係は少なくとも表面上は極めて良好であった。『駒井日記』によると、文禄3年([[1594年]])2月8日、秀次は[[高台院|北政所]]と吉野に花見に行っており、9日には大坂城で秀吉自身が能を舞ったのを五番見物した。13日から20日までは2人とも伏見城にあって舞を舞ったり宴会をしたりして、27日には一緒に吉野に花見に行っている。3月18日には、滋養に利くという虎の骨が朝鮮から秀次のもとに送られてきたので、[[山中長俊]]が煎じたものを秀吉に献じて残りを食している。このような仲睦まじい様子が翌年事件が起こる直前まで記されて、何事もなく過ごしていたのである{{Sfn|徳富|1935|ref=cc|pp=206-212}}{{Efn|この平静は、秀吉が秀次に対して関白譲位を迫って説得していた期間であるという説明をする作家もいるが、想像の域を出ない。}}。
 
しかし一方で、両者の関係は少なくとも表面上は極めて良好であった。『駒井日記』によると、文禄3年([[1594年]])2月8日、秀次は[[高台院|北政所]]と吉野に花見に行っており、9日には大坂城で秀吉自身が能を舞ったのを五番見物した。13日から20日までは2人とも伏見城にあって舞を舞ったり宴会をしたりして、27日には一緒に吉野に花見に行っている。3月18日には、滋養に利くという虎の骨が朝鮮から秀次のもとに送られてきたので、[[山中長俊]]が煎じたものを秀吉に献じて残りを食している。このような仲睦まじい様子が翌年事件が起こる直前まで記されて、何事もなく過ごしていたのである{{Sfn|徳富|1935|ref=cc|pp=206-212}}{{Efn|この平静は、秀吉が秀次に対して関白譲位を迫って説得していた期間であるという説明をする作家もいるが、想像の域を出ない。}}。
 
秀吉は当初、聚楽第の秀次と大坂城の秀頼の中間である伏見にあって、自分が仲を取り持つつもりであったが、伏見は単なる隠居地から機能が強化され、大名屋敷も多く築かれるようになって、むしろ秀次を監視するような恰好になった。4月、秀吉は普請が終わった伏見城に淀殿と秀頼を呼び寄せようとしたが、淀殿が2歳で亡くなった鶴松(棄丸)を思って今動くのは縁起が悪いと反対し、翌年3月まで延期された。秀頼の誕生によって淀殿とその側近の勢力が台頭したことも、秀次には暗雲となった。またこの頃、大坂城の拡張工事と、京都と大阪の中間にあった[[淀古城|淀城]]も破却工事が実施されたが、[[中村博司]]は論文で、これは聚楽第の防備を削り、大坂の武威を示す目的があったのではないかと主張する{{Sfn|小和田|2002|pp=115-116}}。